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家電業界で起業して20年近く。従業員10人と300m2の粗末な工場から始まった女社長の会社は、2つの工場で 毎年1兆VND(約50億円)の売り上げを上げる炊飯器ブランドへと成長した。
紅河デルタ地方ビンフック省の農家に8人きょうだいの1人として生まれたコン・ティ・ミンさんは、米の配給票を得るため他の家族と同様に早くから働きに出ていた。
家は貧しかったが、ミンさんには小さな頃から経営の血が流れていた。ミンさんが小学校5年生の時、家ではレモンを植えており、ビンフック省の省都ビンイエン市からハノイ市まで商売に行く人たちの多くがミンさんの家のレモンを買いに立ち寄っていた。高く売れると聞いたミンさんは父親に「彼らにレモンを売らないで」と言い、大胆な提案をした。「お父さん、代わりに私にレモンを売って。彼らが払っていた金額と同じくらい私も払うから」。
有言実行。ミンさんはレモンを入れた2つの籠を背負い、ハノイ行きの貨物列車に間に合うよう家から30kmの炎天下の道のりを歩いた。初めは経験がなく、籠の中のレモンを一度に全て出し、買い手にとって有利になるように売ってしまったため利益が出なかった。
父親に叱られ、売りに行かせてもらえなくなることを恐れた10歳のミンさんは、友人にお金を借り、さらに貯金を崩して父親にお金を払った。2度目は経験を生かして籠から少しずつレモンを出すことにした。一山がなくなってから次の一山を出すようにし、今度は利益を出すことができた。
「家はとても貧しく、中学校2年生が終わる時に父から学校を辞めるように言われました。女の子が学を持つと結婚するのが難しくなるからという理由でした。私は本とノートを手放し、天秤棒を担いで働きに出ました」。ミンさんは思い出しながら、いつも裕福な家の前に立って、彼らが水運びと引き換えにお米や芋をくれるのを待っていたのだと教えてくれた。
「私の住んでいた郡には38の村がありましたが、私は38全ての村に働きに出ました。当時、女の子は15歳になると結婚するのが普通でしたが、私にはそのような考えが全くありませんでした」とミンさん。
さらに農村の少女の人生を一変させる転機となったのは、叔父から警察の奨学金の話を聞いた時だった。ミンさんは父親にお願いし、父親はすぐに承諾した。6か月間におよぶ挑戦の末、ミンさんは奨学金を得ることができた。1978年、ミンさんはホーチミン市の物流班に配属され、5年後に同じ部署の男性と結婚した。
ミンさんは物流班の幹部として信頼を得ていたが、落ち着くにはまだ若く、人生に変化を求めていた。さらに、夫婦の稼ぎは今の生活を維持するだけで精一杯だった。そこでミンさんは、毎年1か月間の有休をとって経営を始めることにした。ミンさんは友人から200万VND(約1万円)のお金を借りて、水ポンプの事業を始めた。