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実際のところ、リンさんが耐えなければいけない痛みは、身体の一部に火傷を負った患者に比べるとはるかにひどいものだった。母親のハーさんは過去12年間、壊死した部分の処置、癒着した指の付け根の剥離と皮膚の移植など、数えきれないほどの手術を受ける息子を見守ってきた。
最も痛いのは、癒着した皮膚の層を切って縫合する処置だ。手術は何十時間にも及び、ハーさんにとって、手術が終わるのを待つ時間は拷問のようだった。リンさんは痛みのあまり、何度となく病院のベッドで泣き叫んだ。そのたびにハーさんは息子を慰めようと「欲しいものを何でも買ってあげるから」と約束した。
ゲーム機、おもちゃ、ヒーロー人形などは、リンさんの手術の「戦利品」だ。リンさんは手術を繰り返す中で痛みに慣れ、慰めの言葉もいらなくなったが、それでも母親に甘えるようにした。「手術の前になると母はいつも大泣きするんです。でも、僕がご褒美をねだると泣き止んで、笑ってうなずいてくれるから」とリンさん。母親に甘えるということは、母親を悲しませないためのリンさんの気遣いだったのだ。
9年前、リンさんは同級生と同じように小学校1年生になった。周りに後れをとらないように、ハーさんはリンさんに付き添って文字を書く練習をさせた。韓国での3回の手術を経て、癒着していたリンさんの指は離れたが、指の関節は1つずつしかなく、右手には4本の指しか残っていなかった。「初めてペンを握った時、息子の手からは膿が滲み出て出血していました。痛みで息子はずっと泣いていました」とハーさんは当時を振り返る。
リンさんの短い指で長いペンを持つと、すぐに滑り落ちてしまった。ハーさんは、リンさんが必死でペンと格闘し、ノートに一画ずつ練習している姿を見て、何度も涙を流した。最初は落書きのような文字だったが、だんだんとペンをしっかり握れるようになり、きれいに並べた文字を書くことができるようになった。
リンさんは小学校と中学校の9年間で毎年、優秀な生徒として表彰された。何よりも学校に行くのが大好きで、学校を休むのは古傷が痛む時だけだった。
想像を絶する痛みを経験したリンさんだが、しばしば自分が障がい者であることを忘れているかのような行動力を発揮する。4回目の手術の後、首が自由に動くようになり、腕も曲がるようになったリンさんは、自転車の練習をしたいと言い出した。