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1945年のはじめ、昆明に駐屯していた米空軍のパイロットであるソー中尉の航空機が日本軍に撃墜され、ソー中尉はパラシュートでベトナムの東北部地方カオバン省に降下した。ソー中尉はここでゲリラに救出され、ホー・チ・ミン氏のもとに連れて行かれた。
これに先立って、米空軍第14空軍司令官でフライング・タイガースの指揮官として知られるクレア・リー・シェンノート将軍から「ベトミンと関係を構築したい」と申し出があったことを受け、ホー・チ・ミン氏はソー中尉を中国の連合軍のもとに送り返すことに同意した。
そして1945年3月29日、ホー・チ・ミン氏は昆明でシェンノート将軍と友好会合に臨んだ。シェンノート将軍はソー中尉を救助したベトミンに感謝し、できる限りの支援をすると述べたのだった。
会合で双方は、◇ベトナム側はゲリラ部隊を強化し、活動範囲を拡大すること、◇米国側は軍事訓練を支援するために使節団を派遣すると同時に、武器や無線機器、その他を装備することで合意した。双方の連絡を確保するために空港を建設することも、この場で提言された。
こうして1945年6月、ホー・チ・ミン氏は、同志のダム・クアン・チュン氏とレ・ザン氏に、ベトミンと連合軍の協力を強化し、ベトナムの革命運動に便宜を図るべく、野戦空港の建設地を選定するよう指示したのだった。