[特集]
ベトナムがつくった最初の国際空港、ルンコー空港の歴史
2023/07/30 10:18 JST更新
(C) nhandan |
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1945年6月、後にベトナム民主共和国の初代国家主席となるホー・チ・ミン氏は、同志のダム・クアン・チュン氏とレ・ザン氏に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)と連合軍の協力を強化し、ベトナムの革命運動に便宜を図るべく、野戦空港の建設地を選定するよう指示した。
ルンコー空港の跡地は現在の東北部地方トゥエンクアン省ソンズオン郡ミンタイン村(xa Minh Thanh, huyen Son Duong)に位置し、人民公安歴史遺跡区の一部となっている。ルンコー空港はベトナムの軍民が建設した最初の空港であり、ベトナム革命の時代における最初の国際空港でもある。そしてこの空港が、ベトナムの航空産業の形成と発展への道を開いた。
ルンコー空港では、中国の昆明からトゥエンクアン省ソンズオン郡のタンチャオ基地への医薬品や武器の輸送、連合軍の送迎などの任務のため、多くの航空機が往来した。タンチャオ基地は、八月革命の際に総蜂起を決定した全国会議が開催地されるなど、重要な役割を担った地だ。
同空港は1945年6月から8月までの2か月間に使用された。この8月に八月革命が起こり、日本政府が降伏文書に調印した9月2日にベトナム民主共和国が成立、ホー・チ・ミン氏が初代国家主席となった。
1945年のはじめ、昆明に駐屯していた米空軍のパイロットであるソー中尉の航空機が日本軍に撃墜され、ソー中尉はパラシュートでベトナムの東北部地方カオバン省に降下した。ソー中尉はここでゲリラに救出され、ホー・チ・ミン氏のもとに連れて行かれた。
これに先立って、米空軍第14空軍司令官でフライング・タイガースの指揮官として知られるクレア・リー・シェンノート将軍から「ベトミンと関係を構築したい」と申し出があったことを受け、ホー・チ・ミン氏はソー中尉を中国の連合軍のもとに送り返すことに同意した。
そして1945年3月29日、ホー・チ・ミン氏は昆明でシェンノート将軍と友好会合に臨んだ。シェンノート将軍はソー中尉を救助したベトミンに感謝し、できる限りの支援をすると述べたのだった。
会合で双方は、◇ベトナム側はゲリラ部隊を強化し、活動範囲を拡大すること、◇米国側は軍事訓練を支援するために使節団を派遣すると同時に、武器や無線機器、その他を装備することで合意した。双方の連絡を確保するために空港を建設することも、この場で提言された。
こうして1945年6月、ホー・チ・ミン氏は、同志のダム・クアン・チュン氏とレ・ザン氏に、ベトミンと連合軍の協力を強化し、ベトナムの革命運動に便宜を図るべく、野戦空港の建設地を選定するよう指示したのだった。
選ばれた場所はタンチャオ基地からも近く、貨物の輸送にも便利なミンタイン村だった。ここは山脈に囲まれた谷で、谷にある広大な田んぼに農民が稲を植えていたほか、自生する野生植物もたくさん植わっていたため、航空機の離着陸とカモフラージュにも好都合だった。
そして、軍の部隊と近隣の村の人々を動員して、空港の整備が始まった。当初は完成まで1週間の予定だったが、わずか2日間の整地作業でこの野戦空港ができあがった。空港は全長400m、幅20mで、米国の軍用機「L-5」の離着陸が可能だった。
ルンコー空港に最初に着陸したのは、連合軍の士官2人と、タンチャオ基地にいる連合軍への食糧と医薬品を載せた航空機だった。その後も昆明とタンチャオ基地の間を、連合軍の送迎と医薬品や武器の輸送の目的で何便もの航空機が往来した。
ベトナム革命のさなか、まさにベトナム民主共和国が成立する直前のその時期に、北ベトナムの基地に野戦空港を整備したことは、連合国との通商の始まりという意味でも歴史的に重要な出来事だった。さらに、タンチャオ基地に多くの装備や武器、弾丸などを供給し、その後の総蜂起に備えるのにも貢献した。
[Nhan Dan 12:31 27/07/2023, A]
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