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チャン氏は16歳の時に兄と一緒にサイゴン(現在のホーチミン市)に移り、化学薬品店で働き始めた。その後、学業のためにソクチャン省に戻ったが、ベトナム共和国政権下で強制的に入隊させられた。
「他に選択肢はありませんでした。夜中に警察が自宅を訪ねてきたんです」とチャン氏。兵役中、チャン氏は戦争に行くことなく主に料理人を務め、ベトナムの南北が統一された1975年に兵役を終えた。
その後、チャン氏は妻のエイダさんと結婚し、兄と一緒に家族の土地で唐辛子の栽培を始め、チリソースの製造に切り替えた。当時市場に出回っていたチリソースは辛さや風味が物足りないことに気づいたチャン氏は、生唐辛子を購入し、化学物質の知識を生かして、よりフレッシュでスパイシーなチリソースを作ることに決めた。
「生唐辛子の市場価格は不安定なので、チリソースを作りたかったんです。チリソースを作ることができれば、フレッシュな旨味と風味を保ちながらも低価格で販売できますから。唐辛子の価格が上がっても、我々のチリソースは元の価格を維持して市場を構築してきたんです」とチャン氏は語る。
米国に移り住んでから、チャン氏は地元の各市場で唐辛子を仕入れ、1980年2月にフイフォンフーズを設立した。チャン氏の生まれ年である酉年にちなんで、ロゴには雄鶏のイラストを採用した。
チャン氏は緑色のトラックでシラチャーソースの販売を始めた。1987年頃には需要が高まり、チャン氏は持っていたゴールドを売ってロサンゼルスの東にあるローズミードに232m2の広さの建物を購入し、フイフォンフーズの新たな生産拠点とした。
それから10年も経たないうちに、近くにあったワムオー(Wham-O)の古い工場を購入して生産を増強し、2010年にはローズミードの近くのアーウィンデールに立地する広さ603m2の拠点に移転し、現在に至る。
会社の急速な成長に伴い、新たな課題も発生した。2014年、工場から発する唐辛子の臭いが「地元住民を不快にさせている」として、アーウィンデール市はフイフォンフーズを提訴した。この訴訟は物議を醸し、政治家たちはチャン氏とフイフォンフーズに対し、ロサンゼルスから出ていくよう要求した。
チャン氏がマスコミの前に姿を現すことはめったになかったが、工場を一般公開し、住民に見学してもらうことでこの訴訟に対抗した。「チャン氏が人々の注意をひいた理由の1つは、彼自身が控えめな人だったという点です。彼の関心事は、事業をうまく運営することだけだったんです」と、2013年にシラチャーソースに関するドキュメンタリー映画を制作したグリフィン・ハモンド氏は語る。そして、2014年5月に市は訴えを取り下げた。