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長女が少し大きくなると、タインさん夫妻は下宿をしながら従来の仕事を続けた。「よその家の子供たちが両親に可愛がられているのに、うちの子は雨の日も風の日も仕事をする私に背負われて…。少しでも子供の将来が楽になるように頑張るしかなかったんです」。そう話しながらタインさんはあふれる涙を拭う。
フーさんは人脈を駆使して新聞を市場よりおよそ18%安く仕入れ、同業者に売ることで2%の利益を得ていた。リュウガン(竜眼)の旬になると東北部地方バクザン省でこれを仕入れて、同ランソン省のタンタイン国境検問所へ行き卸売業者に売った。豊作の年には価格が暴落し涙をのんだ。マッサージ器具や中国絵画が売れると聞けば仕入れて、新聞と一緒に販売した。
一方でタインさんは飲み物を販売して家計を支えていたが、1997年頃から飲み物や新聞の販売をこの先ずっと続けていくわけにもいかないと考えるようになった。そこで一念発起して2人の子供が2、3歳になった時に経済的困難者向け職業訓練校へ行くことにした。
屋外で仕事をすることに慣れていたタインさんは、学校に通い始めた頃に度々教室のクーラーで体調を崩して40度の高熱を出した。1週間学校を休むこともあり、出席日数が足りず退学を迫られた時は教員に嘆願して何とか勉強を続けることができた。