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「目が見えなければ、深く呼吸をして、じっと耳を傾けて、周りのものにたくさん触れて、自分にないものを補いなさい、といつも娘に言い聞かせていました」とホンさん。
アイン・トゥーさんが小学生になる時、ホンさんは家族に「目を診てもらいにホーチミン市へ行く」と嘘をついて、ホーチミン市の視覚障害者向けの学校であるグエンディンチエウ特別学校の入学申請に娘を連れて行った。入学許可が下りると、ホンさんも田舎での仕事を辞め、荷物をまとめてホーチミン市に移り、部屋を借りた。
大手通信事業者で長年働いていたホンさんは、ホーチミン市でも高給の仕事をすぐに見つけることができた。しかし、朝早くに出勤し、帰りも遅かったため、娘を迎えに行くと他の生徒たちはすでに全員帰った後だった。アイン・トゥーさんは1人、守衛室で母親を待っていた。小学2年生の時には、授業中にストレスが爆発し、救急搬送されたこともあった。
この時、ホンさんは病院に向かいながら「ホーチミン市に来た目的は、娘を学校に通わせるためであって、お金を稼ぐためではない」と考えていた。我が子が身体にチューブを付けて動かずに横たわっている姿を目の当たりにし、ホンさんは転職して、子供と向き合う時間を持とうと決心した。
ホンさんは仕事を辞めて広い一軒家を借り、下の階でヌクマム(Nuoc mam=魚醤)や魚の干物など故郷の特産品を売り、上の階は小部屋に区切って学生たちに貸すことにした。生活の中心は娘の送迎と商売だけになり、夫に会いに田舎へ帰る機会も少なくなっていった。
アイン・トゥーさんが9歳の時、ホンさんは娘にピアノを習わせ始めた。視覚障害者への教え方がわからないという理由で、アイン・トゥーさんを受け入れてくれるピアノ教室はなかなか見つからなかった。「たくさんの先生から、ダンバウ(Dan bau)やダンチャイン(Dan tranh)のような民族楽器を習わせたほうがいい、と言われました。誰も視覚障害者にピアノを教えたことがなかったので、娘のレッスンを引き受けてもらえなかったんです」とホンさん。
教室が見つかると、ホンさんは娘と一緒にレッスンを受け、娘に代わって教室の他の生徒たちとコミュニケーションをとった。家に帰ると、母子は一緒に座り、数百ページにもおよぶチェコ語の楽譜を翻訳した。ホンさんが読み上げた音符をアイン・トゥーさんが点字にして、自主練習できるように楽譜を編集した。