[特集]
全盲のピアニスト、母と二人三脚で夢を追う
2021/01/31 05:16 JST更新
(C) vnexpress |
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生まれつき視覚障害を持つドー・グエン・アイン・トゥーさんは、ピアニストになるという夢を追って母親と共に故郷の南部メコンデルタ地方キエンザン省ラックザー市からホーチミン市に移り住んだ。18年間に渡る母親のサポートを経て、ホーチミン市音楽院で初めての全盲の学生となった。
ホーチミン市7区ミーカイン地区にある古いアパートの4階の小さな部屋で、アイン・トゥーさんがピアノの鍵盤に手を滑らせると、民謡「美しい竹(Cay Truc Xinh)」が響き渡った。目が見えないアイン・トゥーさんは、普通のピアノ奏者のように楽譜を見ながら弾くことができないため、1つの鍵盤を弾いたらすぐに次の鍵盤に両手を移動させなければならない。この曲を演奏できるようになるまでに、数十ページにも及ぶ楽譜を覚える必要があった。
アイン・トゥーさんの母親、グエン・ティ・ホア・ホンさんはこう打ち明けた。「以前は、娘の人生がより色鮮やかになればと願い、ピアノの他にも水泳、絵画、将棋などたくさんの習い事をさせていました。娘が音楽院に入学し、合唱団で健常の楽器奏者と一緒に数百人の観客の前でピアノを演奏するようになる日が来るなんて想像もしていませんでした」。
18年前、アイン・トゥーさんは母親が妊娠28週目の時に早産で生まれた。保育器の中で1か月以上過ごし、退院して家に帰った後、母親のホンさんは赤ん坊の目が動かないことに気づき、不安に駆られた。検査の結果、医師から早産による網膜剥離が原因の先天的な全盲だろうと告げられた。その日から、ホンさんは家の中で目をつぶって移動し、全盲の人の感覚や生活の仕方を理解し、娘の人生をサポートするための準備を始めた。
両目は見えないが、アイン・トゥーさんの両耳の聴覚は優れていた。1歳の頃から様々な音や家族の声を判別することができ、家に客人が訪ねて来た時には声に耳を傾けて何人いるのか正確に当てることができた。
当時、ラックザー市にはまだ視覚障害児のための学校がなかった。3歳になったアイン・トゥーさんを受け入れてくれる幼稚園もなく、ホンさんは家で自ら教育を行うことにした。ホンさんは点字を真似して硬い板にビーズを貼り付け、文字や綴りを教えた。初めは粒の大きなビーズを使って大きい文字を作っていたが、娘の手先が器用になるにつれ、ビーズも文字も徐々に小さくしていった。
アイン・トゥーさんは小さな頃から歌と踊りが好きで、芸術の才能があると感じたホンさんは、オルガンの先生のもとへ通わせることにした。視覚障害者のための教則本がなかったため、ホンさんはビーズを使って点字形式の教則本を作成した。娘のレッスンは、ホンさんにとってのレッスンでもあった。
「目が見えなければ、深く呼吸をして、じっと耳を傾けて、周りのものにたくさん触れて、自分にないものを補いなさい、といつも娘に言い聞かせていました」とホンさん。
アイン・トゥーさんが小学生になる時、ホンさんは家族に「目を診てもらいにホーチミン市へ行く」と嘘をついて、ホーチミン市の視覚障害者向けの学校であるグエンディンチエウ特別学校の入学申請に娘を連れて行った。入学許可が下りると、ホンさんも田舎での仕事を辞め、荷物をまとめてホーチミン市に移り、部屋を借りた。
大手通信事業者で長年働いていたホンさんは、ホーチミン市でも高給の仕事をすぐに見つけることができた。しかし、朝早くに出勤し、帰りも遅かったため、娘を迎えに行くと他の生徒たちはすでに全員帰った後だった。アイン・トゥーさんは1人、守衛室で母親を待っていた。小学2年生の時には、授業中にストレスが爆発し、救急搬送されたこともあった。
この時、ホンさんは病院に向かいながら「ホーチミン市に来た目的は、娘を学校に通わせるためであって、お金を稼ぐためではない」と考えていた。我が子が身体にチューブを付けて動かずに横たわっている姿を目の当たりにし、ホンさんは転職して、子供と向き合う時間を持とうと決心した。
ホンさんは仕事を辞めて広い一軒家を借り、下の階でヌクマム(Nuoc mam=魚醤)や魚の干物など故郷の特産品を売り、上の階は小部屋に区切って学生たちに貸すことにした。生活の中心は娘の送迎と商売だけになり、夫に会いに田舎へ帰る機会も少なくなっていった。
アイン・トゥーさんが9歳の時、ホンさんは娘にピアノを習わせ始めた。視覚障害者への教え方がわからないという理由で、アイン・トゥーさんを受け入れてくれるピアノ教室はなかなか見つからなかった。「たくさんの先生から、ダンバウ(Dan bau)やダンチャイン(Dan tranh)のような民族楽器を習わせたほうがいい、と言われました。誰も視覚障害者にピアノを教えたことがなかったので、娘のレッスンを引き受けてもらえなかったんです」とホンさん。
教室が見つかると、ホンさんは娘と一緒にレッスンを受け、娘に代わって教室の他の生徒たちとコミュニケーションをとった。家に帰ると、母子は一緒に座り、数百ページにもおよぶチェコ語の楽譜を翻訳した。ホンさんが読み上げた音符をアイン・トゥーさんが点字にして、自主練習できるように楽譜を編集した。
2017年、アイン・トゥーさんはホーチミン市のピアノコンクールに出場し、ベトナム、韓国、マレーシアからの出場者188人の中で2位を受賞し、視覚障害者として初めてホーチミン市音楽院に入学できることになった。
アイン・トゥーさんにピアノを教えるグエン・トゥイ・イエンさんはこう語る。「アイン・トゥーさんの今日までの結果は、母親のホンさんのサポートなしには成し得ませんでした。ピアノ学科が開催したマスタークラスのセミナーを今でも思い出します。ホンさんはいつもアイン・トゥーさんに同行し、アイン・トゥーさんは一度も欠席しませんでした。熱心に耳を傾けるアイン・トゥーさんの表情と幸せそうなホンさんの顔は、私を含め、周りの人たちをも幸せな、そしてポジティブな気持ちにさせてくれました」。
ピアノ学科の4年間の最終学年で学んでいるアイン・トゥーさんは、多くの場所でピアノを演奏している。ステージ上でピアノの美しい音色を響かせるのと同時に、母校のグエンディンチエウ特別学校でピアノを教えるボランティアにも参加している。
「私の夢はピアノの先生になることです。後継者として、私が学んできたことを共有し、伝えていくことができたらとても嬉しいです」とアイン・トゥーさんは語る。
アイン・トゥーさんがステージに上がる前、ホンさんはいつも娘に化粧をし、髪を編み、華やかな衣装を選んであげている。ステージに上がると、ほとんどの観客はアイン・トゥーさんが視覚障害者であることに気づかず、挨拶をする際に他の人にサポートしてもらうのを見て初めて知る。
「2020年の半ば、娘はある女の子にピアノのレッスンをすることになり、初めてのお給料で家族の皆にプレゼントを買ってくれました。どれも素晴らしい贈り物でした」とホンさん。
しかしホンさんは、アイン・トゥーさんの母親としての責任は果たせていると感じているものの、妻として、また嫁としての責任は果たせていないと感じており、夫や夫の家族に対して申し訳ない気持ちを常に抱えている。
「去年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、ようやく私と娘でひと月以上、田舎に戻ることができました。ぼろぼろの家と皺の寄った夫の作業着を見て、彼に申し訳なく思いました。12年間も夫と妻子が別々に暮らしている、この状況を早く終わらせたいと願っていますが、いつになったら叶うのかはわかりません」とホンさんは涙目で語り、ため息をついた。
[VnExpress 05:05 11/01/2021, A]
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