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淳子さんは日記にこう記していた。「今までたくさんの場所を旅行したが、ベトナムほど特別な感情がわいた場所は他にない。この地の人々、通りや裏道からも、温かさや喜びが感じられた。日本に帰ってきて、私の心はベトナムに戻り、彼らのより良い暮らしのために何か役に立ちたいとただ願っている。多くの子供たちはとても貧しく、カニを捕まえ巻貝を捕りに行かなければならず、その上で学校にも行っている…」。
淳子さんの両親は、娘の死を前にしてたくさん泣いた。ほんの数日で廣太郎さんは弱り果てた。廣太郎さんは、淳子さんとスキーをしに行ったり、淳子さんの米国留学中にホッケーの試合を観に行ったり、淳子さんが金メダルを獲ったゴルフの試合を観に行ったりする時間がなかったことを後悔していた。廣太郎さんが唯一持っている淳子さんの写真は、淳子さんが大学の友人と映っているものだった。
「淳子の父親のような強い男性が、あんなにも弱気になるのを初めて見ました。彼は1週間余り、ただお酒を飲み、淳子の日記を何度も何度も読み返していました」と淳子さんの母親は語った。
しかし、悲しみの数日間の後、廣太郎さんはきっちりとスーツを着て、会社に復帰した。会社は発展の初期段階にあり、従業員の信頼を失うわけにはいかなかった。ストレスを感じるたび、廣太郎さんは淳子さんが贈ってくれたスキー用の手袋を眺めた。
「私たち夫婦が外を歩いていて、日本に留学しているベトナム人女性を見かけたとき、夫は淳子を思い出して子供のように泣き出しました」と淳子さんの母親は振り返る。そしてこのころ、廣太郎さんは娘の遺志を継いでベトナムに学校を建てようと思うようになった。