チャンパ王国は、2世紀末から15世紀後半ごろまでベトナム中~南部の沿岸地方に存在した初期国家だ。南中部沿岸地方のダナン市とクアンナム省の地域は同王国の初期の中心地で、聖地ミーソン・港市ホイアン・王都チャーキエウ(チャーキュウ)の3か所を中心として栄えたとされている。
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クアンナム省にあるチャーキエウ遺跡に魅了され、自身の研究の方向性を変え、クアンナム省の地と、この地の人々とともに人生の旅路を歩んできた日本人考古学者がいる。
山形眞理子氏が、ロンドン大学の故イアン・グラバー博士率いる調査隊のメンバーとしてチャーキエウを初めて訪れたのは、1993年の春のことだ。
ブウチャウの丘の上に位置するチャーキエウを初めて訪れた山形氏は、日本の縄文土器に関する博士論文を執筆中ではあったが、チャーキエウを今後の研究の対象にすることに決めた。
山形氏は現在、立教大学の特任教授であり、日本の東南アジア考古学会の会長(2020~2023年度任期)を務める。
過去30年間にわたり、山形氏はチャーキエウの調査に多くの時間を捧げ、そしてベトナムと日本の若手研究者たちをつなぎ、指導を行ってきた。
異なる見解
山形氏たちがチャーキエウを訪れる以前にも、長きにわたり多くの研究者たちがこの地について考古学の調査と研究を行ってきた。しかしながら、チャーキエウの年代や位置付けに関しては、依然として多くの異なる見解があった。
フランス植民地時代にフランス極東学院(EFEO)のフランス人研究者たちが行った調査・研究に関して言えば、ルイ・フィノ(1904年)はチャーキエウについて「古都シンハプラ(サンスクリット語)の可能性」を示唆した。
レオナール・オールソー(1914年)は「林邑(中国の歴史書にあらわれるチャンパの名称)の都であり、紀元後5世紀に中国の軍隊によって略奪された都市」だとした。一方、アンリ・マスペロ(1924年)は、日南郡象林県(中国・漢の南端、林邑はここから独立)の所在地について懐疑的であり、林邑はチャーキエウではなく、北中部地方トゥアティエン・フエ省にあったとした。
オールソーとジャン=イヴ・クレイは、1927年から1928年にかけて行ったチャーキエウの発掘調査の後、「チャーキエウこそ林邑の都であると同時に、中国・漢の支配下にあった象林県の中心地でもあった」との見解を示した。