しかし、1947年になると、シュタインは中国の史料に基づいてオールソーとクレイの研究結果を否定し、林邑はハイバン峠(トゥアティエン・フエ省とダナン市の間に位置する峠)の北にあったとした。
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その後、ベトナム人による調査・研究も行われるようになった。1985年、ハノイ市の大学の調査隊は、チャーキエウの地で紀元後およそ2世紀末から4世紀初頭のものとみられる、サーフィン文化(紀元前500年もしくは300年頃から紀元後100年頃にかけてベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化)の末期とチャンパの初期の土器の破片を発見したと報告した。また、サーフィン文化に関係する他の痕跡も見つかった。
ベトナム人、英国人、そして山形氏ら日本人の考古学者から成る調査隊は、1993年から1996年にかけてチャーキエウで発掘調査を行った。先行研究の結果を踏まえながら、調査隊は注目すべきさまざまな問題を提起していった。
クレイは、EFEOで最も優秀な考古学者だったことは間違いないが、フランス植民地時代にチャーキエウで行われた最初の大規模かつ複数の地点での考古学調査・研究においては、チャーキエウから多数出土する遺物としての土器や瓦にはあまり目が向けられなかった。
こうした中、山形氏も参加したこの調査隊は、出土土器の年代を見極めること、そしてサーフィン文化とチャンパの関係性を考察することを目的に据えたのだった。山形氏はまた、チャーキエウの年代と遺跡の変遷、さらにチャーキエウの地に人々が定住したのはいつからなのか、林邑とチャンパにはどのような関係があったのかということにも関心があった。
発掘調査からわかったこと
1993年、山形氏を含めた調査隊は、発掘調査で非常に重要な遺物を多数発見した。多くの遺物は中国南部やベトナム北部でみられる漢代の土器と関係していたほか、遺跡から出土した炭化物を分析したところ紀元後1~3世紀という年代が出た。
さらに注目すべきは、調査隊が1997年から2000年にかけてチャーキエウのホアンチャウ地点で行った発掘調査で、山形氏は下層から上層までの土層中に含まれる一連の遺物を特定することに成功した。これにより、考古学的な観点からみたチャーキエウの古代の歴史に光が当てられることとなった。
山形氏は、その後もほぼ毎年チャーキエウを訪れ、踏査や発掘調査を続けた。また、チャーキエウだけでなく、比較対象として他のさらに古い遺跡の調査・研究も進めた。山形氏は自身の考えについてこう語る。