中学生になると、通学路は15kmと以前の5倍の距離になった。その年の夏、ニンさん夫妻は端境期に備えて蓄えておく予定だったトウモロコシと米の袋を、古い自転車と交換してきた。家族の誰も自転車の乗り方を知らなかったため、子供たち皆が驚いた。
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キアさん親子は夏の2か月間、家の前の山道で自転車と格闘し、自転車の乗り方を知らない父親が、どうにか娘に乗り方を教えた。おんぼろの自転車で通学するキアさんを学校の友人たちは笑ったが、キアさんにとってその古い自転車は宝物だった。
朝起きると2つのタイヤの空気が抜けていて、泣いたこともあった。村で唯一の修理屋と学校までの家からの距離は同じくらいだったため、キアさんはやむなく15kmの通学路を歩いた。
しかし、父親は娘を放ってはおかなかった。翌朝早く、ニンさんは壊れた自転車を引き、教科書の入ったかばんを背中にしょって娘と一緒に修理屋へ行き、修理が終わるのを待った。そして、校門に入った娘の姿が見えなくなるまで見送り、ようやく安心して歩いて家に帰った。
トアット村落で小学校を卒業した唯一の女の子だったキアさんは、ついにはフンロイ村で高校に進学した唯一の女の子になった。しかしながら、女の子に多くの学費をかけたニンさん夫妻は、依然として村の人々からおかしな親だと思われていた。
キアさんと同年代の友人たちが次々と結婚し、子供を産み、会社勤めをして携帯電話やテレビなどを購入し、両親にも服を買ってあげたりするようになる中、キアさんの両親は日に日に貧しくなっていった。
寡黙な父親が娘に心の内を打ち明けることはめったになかったが、学費や食費をまかなうためにニンさんが家のものを売っていることを、キアさんは知っていた。ある週末、寄宿学校からひょっこり家に帰ったキアさんは、白米だけしかない両親の昼食を目にした。キアさんは泣き崩れ、学校をやめて工場労働者として働くと訴えたが、父親には叱られた。
「私は意志が弱く、私のせいで両親が苦労しているのを目の当たりにして、何度も学校を辞めそうになりました。でも、父は許してくれませんでした」とキアさん。その時ニンさんは、自分もキアさんの姉たちも文字を知らない人生を送ってきて、もうこれ以上娘には苦しい思いをしてほしくない、と言ったのだという。
その年、キアさんのクラスには32人の生徒がいたが、大学入試を受けたのはキアさんともう1人の2人だけだった。キアさんは、トゥエンクアン省タンチャオ大学の初等教育学部を単願受験した。クラスメイトはどうしてハノイ市の大学に行かないのかとキアさんを責めたが、キアさんはトアット村に戻って教師として働き、両親のそばで暮らしたいと考えていた。