―――劇中の官能的な描写や第三夫人というテーマ自体がいい意味でも悪い意味でも好奇の目を寄せてしまい、そちらばかりに集中して観る方もいるかと思うのですが、描写するときに気を付けたことはありますか。
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私はそれについては心配していませんでした。誰が何を言っても気にしないということなのですが。というのは、私は「そこに真実がある」と思ったんです。官能性もセクシュアリティも女性であることの一部である、と。
映画は女の子の成長物語であるわけですが、女性の成長の中で感情的な旅路があり、身体が成長していく、変わっていく、そしてまた欲望も目覚めていく、ということは女性であることの一部であり、そういう意味ですごくフェミニスト的な映画ですし、女性であることを祝福しているというふうに思うんですね。官能や欲望について3人の妻たちが話をしたりするというのも、私にとっては真実であり美しいことだと思っているので、それはそのまま心配せずに出しました。
―――今のお話にあったような内容や官能的な描写によって、ベトナムでは4日間のみの上映となってしまったわけですが、その時、監督ご自身はどのようなお気持ちでしたか。また、今のベトナムでは映画の表現などにおいて制限があるという現状について、どのようにお考えでしょうか。
まず、表現の自由から話をしますと、ベトナムではまだ非常に問題があります。歴史的にもアーティストに対する大きな問題になっているわけなのですが、たとえ海外の映画祭などで成功している作品でも、検閲があったりしてベトナム国内で上映できないというケースが結構たくさんあります。それはとても恥ずべきことだと思うんですね。特に才能がある若い人たちがいっぱいいるのに、国からはサポートが得られない。それがある意味、ベトナム映画のインターナショナルなレベルでの地位の向上を妨げているということがあると思います。
才能はあるんだけれども、表現の自由が制限されている。この「第三夫人と髪飾り」に起こったことというのは、(トラン・アン・ユン監督の)「シクロ」にも起こっています。シクロは(1995年の第52回ヴェネツィア国際映画祭で)金獅子賞を受賞したにもかかわらず、ベトナム国内では上映禁止になっていましたので、「よくあること」ではあるんですね。なので、たぶん私の映画も上映禁止になるのではないかな、とある程度予期はしていました。
これは女性のセクシュアリティについて描いていますし、ベトナムの歴史のある意味暗い部分、女性を抑圧してきた部分というのをはっきり描いていますので、これが劇場で公開されたらある人たちの神経をさかなでるだろう、ということは感じていました。それから、父権的な社会というものを揺るがすので、嫌がられるだろうなということは思っていました。
そして、こういうことがあるとはわかってはいたのですが、いろいろなファクターを加味して、それでもベトナムで上映したいと思った一番大きな理由のひとつが、祖父母に見せたかったということなんですね。祖父母に、劇場で自分たちの家族の話を見てほしかった。彼らは海外の映画祭に行くことはできないので、ベトナム国内の劇場で見せたい気持ちが強かったということがあります。
あとは、若いベトナムのフィルムメーカーたちに見せたかったんですね。「自分の言いたいことを出し切っていいのだ」と、「自分で妥協せずに、そして周りを恐れずに、自分なりの最高のレベルで映画を作っていいのだ」と伝えたかった。
ベトナムでは4日で上映禁止になりましたが、それでもこの映画は上映されたわけです。そしてたくさんの人が観て、未だにその話をしている。それが私のメッセージなんです。ベトナム人アーティストたちに、「勇気を持って映画を作り続ければいずれ自由になれるんだよ」というメッセージを出したかったんです。
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