刑務所の中でも彼は、他の同志たちと共に自らの信念を貫き続け、ベトナム共和国の旗に敬礼せず、解放の歌しか歌わなかった。「この経験が私の政治理念を育ててくれました。仲間たちは外部の状況を報告してくれており、1969年9月2日にホーチミン主席が亡くなった時は、弾圧を受けながらも刑務所の中で主席を偲ぶ葬儀を決行しました」。
(C)Vnexpress, 「ホー・クオン・クイエット」ことアンドレ・マルセル・メンラス氏 |
彼には思い出すと今でも涙が溢れる出来事がある。刑務所仲間たちがメンラス氏とデプリス氏にベトナム名を付けてくれた時のことだ。同志たちはメンラス氏を「ホー・クオン・クイエット」、デプリス氏を「ホー・タット・タン」と呼んだ。「ホー」はホーチミン主席の姓であり、名前にはいずれも「必勝」の意味がある。初めはホー主席の苗字など恐れ多いと思ったが、いつかベトナム国籍を取ることができたらこの名を名乗ろうと心に誓った。
1973年1月1日、パリ協定締結のおよそ1か月前に彼は釈放され、国外追放となった。この時彼は秘密裏に入手したコンダオ島、フーコック島、チーホア刑務所、タンヒエップ刑務所に収監されている囚人リストを南ベトナム共和国臨時革命政府のファム・ティ・ミン女史に送った。当時ベトナム共和国政府とアメリカ軍が出していた「南ベトナムに政治犯はいない」という発表が誤りであることを明らかにし、糾弾するためだった。
帰国後、メンラス氏はデプリス氏と共に「私たちは告訴する―サイゴン監獄からの帰還」という本を出版、7か国語に翻訳され、数十万部発行された。これによりこれまでのベトナムへの貢献が認められ、2002年にメンラス氏はホーチミン市民として認められる。そして同年、彼は仏日師範交流発展友好協会を設立し、両国の交流促進に努めている。