幸いなことに、タンさんはフウという名前のベトナム語が堪能な中国人と知り合い、助けてもらった。フウさんはタンさんを警察署に連れて行き、事情を説明した後、ベトナム人が多く住んでいる町までの地図を描いてくれた。「私は中国語がわからないので、私が道に迷わないよう、彼はコミュニケーションをとるための文章も書いてくれました」とタンさんは振り返る。
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この紙とともに、タンさんは広西チワン族自治区のいくつかの町を巡った。このとき、タンさんは地元に住む少女の助けを借り、ベトナム領事館に届を提出するため南寧市まで連れて行ってもらった。しかし、数日間探しても結果は出ず、お金も底を尽きたためベトナムに帰った。
最初の2回の捜索の結果、タンさんはいつまでも人の助けに頼ることはできないと気づいた。なぜなら捜索は丸1年、もしくは数年にも及ぶかもしれなかったからだ。
2008年3月、タンさんはハノイ市で中国語を学ぶことに決めた。毎週月・水・金曜日の夜に、家から7~8km離れたセンターに自転車で通った。
「タンさんはいつも一番早く教室に来て、一番遅くまで残っていました。タンさんは、中国のいくつかの地名の読み方や書き方を尋ねました。最初は驚きましたが、タンさんの置かれている状況を知って、心を動かされました」とタンさんの中国語の先生であるチャン・タイン・ホアさんは教えてくれた。
「タンさんは何日も授業を休むことがありました。戻ってくると、娘さんを探しに中国まで行ったが見つからなかった、という話を打ち明けてくれました」とホアさんは回想した。
4か月後、少しばかりの中国語と、土地の一部を売ったお金とともに、タンさんは再び広西チワン族自治区に向かった。このときは5000万VND(約23万5000円)の報酬を出すと書いたチラシを数千部印刷したが、依然として結果は出なかった。