しかし、すべてを自分で工夫してできるようになった時、ニュットさんは再び孤独に陥った。失ってしまった自分の両手に引け目を感じていたニュットさんは、ほとんど家の外に出ていなかったのだ。
(C) dantri |
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事故から約2年後、ニュットさんは友人が結婚式で演奏するというのでついて行ったところ、地元で音楽を教えているたくさんの教師たちと知り合った。彼らは、手足を使った肉体労働はできなくても頭を使ってお金を稼ぐことならできるでしょう、と、ニュットさんにもう一度学校に行くよう薦めた。しかし、ペンも持てないのだからとニュットさんはためらっていた。
ある日、ニュットさんの父親がバイクを売ることになったが、母親は読み書きができず、他の身内もまた中学校も出ていなかったため、書類を書くことができなかった。そこでニュットさんが挑戦してみることになった。くねくねした線の落書きのようではあったが、読んで理解するには十分だった。「もしその時に試していなかったら、自分がまだ文字が書けるということすら知らないままだったでしょう」とニュットさん。
それがモチベーションとなり、ニュットさんは6か月間の中学4年生 (日本の中学3年生に相当)の補習に登録し、その後は教育センターで高校の教育を受けた。自分はあまり勉強ができない生徒だったという自覚があったニュットさんは、基本的な知識を取り戻すためにオンラインでも自習するなど、積極的に勉学に励んだ。
ニュットさんを3年間教えていた国語教師のファム・ゴック・チャンさん(女性・36歳)によると、当初はニュットさんが障がい者であることから授業についていけないのではないかと心配していた。しかし実際は、ニュットさんが授業についていけるというだけでなく、ノートの文字まで美しく書いていて驚いたという。「補習は馬に乗って花見をすれば学位がもらえるような簡単なものだと思っている人が多いのですが、ニュットさんは本当に努力を重ねて、3年間続けて全科目で優秀な成績をおさめたんです」とチャンさんは語る。
大学進学を目前に控えたニュットさんは、「両親に一生自分の世話をさせるわけにはいかない」という考えから、自立して生活していくためにも故郷を離れてホーチミン市の大学に進学した。息子が自分で日常生活を送れることはわかっていたものの、携帯電話の画面越しに古いアパートで暮らしている息子の姿を見て、母親のバンさんは涙を堪えることができなかった。