1854年、キエムは「レ・キム」を名乗ったままベトナムに帰国した。かつての犯罪による指名手配から逃れるため、故郷には帰らず、「明郷(Minh Huong)人」(中国の清朝への服属を拒否した中華系移民)を自称し、ディントゥオン省(現在の南部メコンデルタ地方ティエンザン省、ベンチェ省、ドンタップ省)で開拓に従事した。
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キエムは開拓を進め、ディントゥオン省タンタイン府ホアアン村(lang Hoa An, phu Tan Thanh, tinh Dinh Tuong、現在のドンタップ省の一部)を設立した。キエムはここでファンという女性と再婚し、2人の息子をもうけた。
キエムは、1860年に故郷のスアンルン村にいる実兄のチャン・マイン・チー宛てにチュノム(ベトナム語を表記するために漢字を応用して作られた文字)で書き送った手紙の中で、フォーヒエンで乗り込んだ外国の商船から米国での過酷な日々、ベトナムへの帰国、そしてディントゥオン省に居を構えたことまで、自分が経てきた10年間の旅について詳細に語った。
1860年代に入ってフランスがコーチシナの東部3省と西部3省を占領すると、キエムは家と土地、すべての財産を手放し、当時ドンタップムオイ(Dong Thap Muoi、現在のロンアン省、ティエンザン省、ドンタップ省)でフランス植民地支配に対する蜂起を指導していたボー・ズイ・ズオンに付いて、反乱軍に志願した。
その後、キエムは1つの軍の指揮を任され、ミーチャー(My Tra、現在のドンタップ省カオライン市)をはじめとする各地で抗戦した。そして1866年、ドゥ・ラ・グランディエール率いるフランス軍の襲撃で反乱軍は倒れたが、キエムは敵に捕らえられることを拒否し、自害した。このころ、キエムは45歳だった。キエムの遺体は、ゴータップ(現在のドンタップ省タップムオイ郡)に埋葬された。