例えば、病院長がフランス人だった時、病院長はアンリエット女史にワンピースを着るよう求めた。理由は、ワンピースを着ればフランス人の同僚から尊敬と平等の意を示してもらえるが、そうでなければ産科医でなく助産師としてしか見てもらえないから、ということだった。しかし、アンリエット女史は自尊心と民族の誇りからその要求を拒否し、ベトナム人の服を着続けた。
(C) dantri、25歳のアンリエット女史 |
(C) dantri |
アンリエット女史は44年間のキャリアの中で、ベトナムで働くこともあれば、トレーニングのためフランスへ渡ることもあった。1957年には日本にも行き、産科に応用するため鍼治療の技術も学んだ。1961年からはフランスに拠点を移し、自身のクリニックで診療を行った。
1970年にベトナムへ帰国すると、東北部地方フート省の病院の小児科と産科でボランティアとして奉仕することを志願した。1971年には再びフランスへ戻り、1976年まで仕事を続けた。その後、2012年4月27日にパリで逝去した。106歳だった。
私生活では、父親の取り計らいにより、立憲党員であり弁護士であるブオン・クアン・ニュオン(Vuong Quang Nhuong)氏と結婚した。当時、この結婚は国民から注目を集めた。しかし、2人は人生における共通のものを見つけ出すことができず、1937年にわずか2年間の結婚生活にピリオドを打った。
その後、1960年代初頭にフランスにいた頃、グエン・ゴック・ビック(Nguyen Ngoc Bich)氏と出会い恋に落ちたが、ビック氏は咽頭がんを患い2人が夫婦になって数年後に逝去した。
仕事に献身的に取り組んだだけでなく、アンリエット女史は当時のテスタール(Testard)通り28番地にあった私邸を、サイゴン大学研究所傘下のサイゴン医科大学のキャンパス用に寄付した。現在、この場所はホーチミン市3区ボーバンタン(Vo Van Tan)通りの戦争証跡博物館の一部となっている。