アンリエット女史が医学の道へ進んだのは、フランス留学がきっかけだった。また、サイゴンで有名な結核の医師だった兄のルイ・ブイ・クアン・チエウ(Louis Bui Quang Chieu)氏の影響も受けた。
(C) dantri、25歳のアンリエット女史 |
(C) dantri |
アンリエット女史は1926年にフランス・パリのリセ・フェヌロン高校を卒業し、翌年にパリ医科大学の学生になった。青春時代を勉学に捧げ、講義室と研究室で7年間を過ごした後、1934年に優秀な成績で大学を卒業した。卒業論文は審査員から賞賛され、賞も授けられた。
アンリエット女史はフランスで学位を取得してベトナムに帰国し、医学分野の道に進んだ。当時のベトナムは、ベトナム人の医師もまだ少なく、ましてや女性医師などいない時代だった。さらに、当時はどんな分野においてもフランス人がベトナム人を軽視していた。それでも、アンリエット女史は1935年に29歳でチョロン病院の助産科長に就任した。
当時、多くのベトナム人にとって病院や診療所、そして西洋医学の科学的手法は馴染みのないものだった。それだけでなく、アンリエット女史はフランス人の同僚からの偏見の目などもあり、多くの困難に直面した。
その頃のベトナムはフランスによって植民地化されていたため、フランス人の「安南(フランス植民地時代のベトナム北部~中部の地域)人」に対する差別の目があった。この差別により、フランス人がベトナム人の同僚を蔑視したり、フランス人医師とベトナム人医師の賃金に差が生じたりしていた。
そんな中でアンリエット女史は、ベトナム人医師とベトナム人患者の正当な権利を主張して上司と真っ向から戦い、仕事への愛と民族の誇りによってこうした困難を乗り越えた。