故郷の美味しい料理の店を開きたいと考えたチンさんは実家へ戻り、地元で名の知れたタイソン風バインクオン屋の門を叩いた。弟子入りしたいと申し出た時、「実子でさえ苦労の多い店を継ぎたくないと言っているのに、大学まで出ておいてバインクオンを売りたいだなんて信じられない!」と女性店主に門前払いされたが、熱意が伝わり無事に弟子入りしたという。
(C) Vnexpress |
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中部地方の味の特徴であるトウガラシの辛さと塩辛さは、ホーチミン市民の嗜好に合うように調整が必要だった。現在のつけダレに至るまでは長い時間と研究を要し、当時チンさんは友人たちにヌクマム(魚醤)臭いとからかわれたものだった。
味の研究の次に苦労したのが開業資金だ。卒業後も在学中の借金が残っていたチンさんは、友人・知人にタイソン風バインクオン屋のアイディアを話してかんぱを募った。しかし、ほとんどの人は職に就いて堅実に生計を立てるべきだと首を横に振った。
しかし、ついにある先生がチンさんのアイディアに賛同し、開業資金を出資してくれることになった。チンさんはこの資金でタンフー区の小さな貸店舗で店をオープンした。当初、メニューはタイソン風バインクオンのみだったのを、ジュースなど売れそうなものは何でも売るようにしたが、売れば売るほど赤字になった。そして、オープンから7か月目にして資金繰りができなくなり閉店。
その年のテト(旧正月)、チンさんは友人にチケット代を借りて帰省した。「周りの友人たちは就職して帰省するチケットや両親へのお土産を買うお金もあるというのに自分は大学を出ても一文無しで、その時のプレッシャーたるや半端なものではありませんでした」とチンさん。
テトが明けてホーチミン市に戻ったチンさんは、これ以上両親に心配はかけられないと就職した。しかし、1日8時間の就業時間は途方もなく長く感じ、なぜビジネスが失敗したのかという考えが頭から離れなかった。チンさんはインターネットでビジネスのノウハウを学ぶと、自分の商売の仕方があまりにもぞんざいだったことに気付いた。
自分の作った料理は美味しいからと単純に考えて開業し、客が来るのを待った。しかし、まだ市場に浸透していない料理に客足は伸びなかった。そして、初期投資では、本来必要だった宣伝や顧客開拓ではなく、店舗の椅子やテーブルなどにお金を使い、無駄な出費をしていたのだ。