(C) thanhnien 写真の拡大 |
現在のホーチミン市9区ロンビン街区(phuong Long Binh)に、「チャンチョンキエム(Tran Trong Khiem)通り」がある。この通り名の由来となった人物が、今から170年余り前に初めて米国へ渡ったベトナム人だということを知る人はほとんどいないだろう。
物語は、阮(グエン)朝(1802~1945年)時代の1842年に始まる。現在の東北部地方フート省ラムタオ郡(huyen Lam Thao)にあたるラムタオ府スアンルン村(lang Xuan Lung, phu Lam Thao)で、チャン・チョン・キエムという名の21歳の男が、重罪を犯した。キエムは、結婚したばかりの妻が該総(村レベルの行政区画の長)に殺害され、復讐のためにその該総を殺害したのだった。
その後、キエムは現在の北部紅河デルタ地方フンイエン省のフォーヒエン(Pho Hien)に逃げ、外国の商船で働き始めた。これが、キエムの5大陸にまたがる冒険の始まりだった。
1842年から1854年までの12年間に、キエムは香港、英国、オランダ、フランスと、アジアからヨーロッパまで数多くの土地を旅した。知性を活かし、行く先々で現地の言葉を習得した。1849年、米国のニューオーリンズにたどり着いたキエムは、故郷に帰る手段を見つけるまでの4年間、米国をさすらうこととなった。
米国に到着したころのキエムは28歳。「レ・キム(Le Kim)」という偽名を使って中国人を装い、ゴールドラッシュに乗じて西部地方で金の採掘集団に参加した。それから2年近くの間、キエムはレ・キムとして西部で本物のカウボーイの生活を送った。
キエムは、マークというカナダ人が立ち上げた金採掘集団に参加していた。この集団に参加するには、全員が食糧購入費や準備費としてお金を出し合わなければならなかった。キエムは1849年当時の金額で200USDを寄付した。
キエムは多くの外国語を習得していたため、リーダーのマークの連絡係として、またオランダや中国、フランスなど多国籍なメンバーの通訳係としての役割を担った。
キエムは皆にベトナム語もできると話したが、それを実際に使う機会はなかった。さらに、自分は中国人ではなく、中国の隣国の出身だということも話した。集団の中でキエムは丁寧で礼儀正しく、親切なことで有名で、皆からも尊敬されていた。