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当時、相当に裕福な家庭だけがドイツのMifaの自転車やMukichのバイクを購入できた。Babetaのバイク、FavoritやEskaの自転車は、多くの家庭にとって夢だった。一方、ソ連へ派遣される労働者は、良くてSaratovの冷蔵庫、それに鍋やアイロン、Kamaのウォーターポンプを持って帰れるかどうか、というところだった。
ソ連の工場で共同労働に従事するベトナムの若者はかなり多く、ピーク時には10万人にも達した。大部分がモスクワ周辺などの大都市に集中していた。
外国へ行く準備をしているときは、「向こうに行けば専門的な分野を学ぶことができる」と誰もが信じている。外国で暮らす数年間は、衣食住ともに足り、勤務時間外はあちこちに行って、かつて「地上の天国」と称された地で新しいものを見て感じることができるだろう。そして母国に帰ればお金は十分にあるし、自分の家でも建てよう、と考えるのだ。
しかし、現実は違った。共同労働で出稼ぎに行く人々は、実質的に雇われた労働者であり、国内を自由に往来する自由などなかった。モスクワや他の都市に遊びに行きたければ、地方当局からビザを取得しなければならなかった。
しかもこのビザは四半期に1度しか発行されない。工場の幹部は、「ビザという報酬」を掲げてベトナム人労働者たちが競って熱心に働くよう鼓舞した。
質の高い製品を数多く製造した人は、ボーナスに加えてモスクワ行きのビザをより多い回数、しかも滞在期間も長く取得することができた。モスクワへ行くのは、観光や現地の人との交流、友人作りのためというだけでなく、家族に送るための買い物が最も重要な目的だ。
長く続いた戦争が終わって数年の間は、ベトナムでは物資が不足し、さらに米国と同盟国によって禁輸が行われていた。そのため、あらゆる必需品や工業製品は配布により得るしかなかった。
ベトナムでは、外国に出稼ぎに行っている親戚が送ってくれたものは、針や糸、石鹸、かみそりの刃から自転車やバイク、ラジオ、テレビ、冷蔵庫まで、どんなものでも貴重だった。こうした製品はモスクワや他の一部の都市でたくさん売られていたため、共同労働の人々でモスクワに行きたがらない人などいなかった。