ベトナムで出会い、共にベトナムを愛し、10年の月日を現地で過ごした夫婦の写真展「二人が愛したベトナム」が、7月24日(日)から30日(土)まで、愛媛県西条市の「空とぶくじら一柳こんにゃく⻄条店」店内(愛媛県⻄条市東町205)で開催される。
旅行会社勤務を経て日本語教師としてベトナムへ渡った須田卓哉さんと、小学生の時にベトナムとの運命的な出会いを果たし、大学卒業後にベトナムへ渡った須田弥生さん夫婦は、2010年にハノイ市で出会い、結婚。2020年には長男が誕生した。
しかし、弥生さんの体調不良により2021年12月に日本へ帰国。弥生さんは帰国後間もなく体調が悪化し、緊急搬送された病院でスキルス性胃がん末期のため余命3日を告げられ、今年1月に他界した。弥生さんが生きていた証である、彼女が撮りためたベトナムの写真を多くの人々に観てほしいとの思いから、今回の写真展の開催に至った。
写真展は、愛媛に続いて大阪で9月6日(火)から10日(土)まで開催され、その後も新潟・東京・千葉・大分と全国を巡回する予定。
写真展の問い合わせ先は以下。
◇メールアドレス:hanoi.suda@gmail.com
◇フェイスブック(Facebook):https://www.facebook.com/Tình-yêu-10-năm-二人が愛したベトナム-105060752243640
写真展開催の意図と経緯について
「いままでありがとう。楽しかったよ。」
妻・弥生を兵庫県内の病院で見送ったのは今年の1月10日。
また、元気になってハノイへ帰ろう。そう約束したはずだった。
私と妻はそれぞれ2007年から渡越し、日本語教師の道を歩んでいた。
ひょんなことから2010年に同じ語学センターで日本語のクラスを受け持つことになった。
初対面ではお互い良い印象を持っていなかったが、お互いお酒が好きだったことと、クラス全体を巻き込む私の授業を妻は面白がってくれて、次第に飲み友達以上に親密な仲になっていった。
妻は生前、私と出会えて世界が広がった、としきりに語っていた。
それまではベトナム人と結婚してベトナムと日本しか知らないまま死ぬのだろうな、と思っていたらしい。
旅好きな私の影響を受けてか、妻も旅が好きになり、毎年いろんなところへ遊びに行った。
一生に一度でいいからプラハへ行ってみたいというので、付き合い始めたころ一緒にプラハへ。
ハノイにいるうちには行かなきゃと思っていたというアンコールワットは婚前旅行で。
新婚旅行は紆余曲折あった末にブダペスト→ワルシャワ→パリのルートになった。
その後も私たち二人の間では1年に2回海外旅行することが定番になった。
また、妻も私も付き合い始めてすぐ写真撮影という共通の趣味を持つことができた。
私の前職の先輩の方に料理写真の撮り方を教わり、「コンデジでも工夫すればきれいに撮れる」ことがわかってから、設定を自分なりに工夫して撮ることにはまった。
コンデジでは設定の制限があることから、一眼レフを手に入れた。
もっと本格的な写真を目指したい、と二眼レフやフィルムカメラにも手を出した。
旅行に、写真に、骨董にと二人でいる時間と場所はお互いの好きなもので埋め尽くされるようになった。
2020年のことだった。
妻が、体調が悪いので病院へ行きたいという。
病院嫌いな妻が自分から病院へ行きたいと言うなんて珍しいこともあるものだと悠長に考えていた。
保険は私の扶養だったので、扶養者である私も初診には同行する必要があった。
検査結果は「いたって健康そのもの、異常なし。」だった。
腑に落ちない私たちに、医師はエコー検査を勧めた。
二人とも「まさか。」「いや、ないない。」と思っていた。
ところが、エコー画像には確かに「何か」が映っていた。妊娠26週。「中の人」に気づいた瞬間だった。
妊娠に気づかず、トイレで出産してしまう話は聞いてはいたが、まさか。
その後も発育は順調で、予定日前日の8月8日を迎えた。
妻は昼頃から気になる程度に腰が痛いというので、早めに病院へ行っておこうと誘ったが、「こんなただの腰痛で病院に駆け込むのは恥ずかしい。せめて前駆陣痛が来てから。」と病院へ行くことを拒んだ。
前駆陣痛が来てから病院へ行っても十分間に合う、病院からはそう指導されていた。
8月9日早朝、腰の痛みがひどくなったようでトイレから出ることができない。
相当苦しいらしく、救急車を呼ぼうとしたが、妻は相変わらず「恥ずかしいから救急車なんて嫌。」という。
そんな我儘言っている場合ではないのだが。
午前5時10分、ついに立つことも歩くこともできなくなったので、私が独断で救急車を呼んだ。
早朝にもかかわらずなかなか救急車が到着できず、イライラが募る。
「もう近くまで来た」と救急隊員から連絡があり、目印になるため外に出ようとした瞬間
「も う あ た ま が で て る」
妻の叫びを聞いて急いで家の中に入り、妻の後ろに回り込む。
私は腕を伸ばして、この世に生まれようとしている子供の頭を柔らかくささえた。
「もういいよ、受け取るから!」知らず、私もそう妻に声をかけた。
体をひねりながら、この世界へやってきたその子は私の腕に抱かれて産声を上げた。
へその緒も、胎盤も、すべて私が受け止め、私たちは自宅で「自力出産」を成し遂げた。
急なことで産湯の用意はなく、洗濯したばかりのタオルで赤ん坊を拭いた。
小さい、でも生きることに必死な赤ん坊の姿を見て感動が涙を誘った。
元気な子だね、産んでくれてありがとうと妻を見上げたら。
彼女は仁王立ちし、いかにも「スッキリした」という表情。
この切羽詰まった出産の現場にも関わらず、である。
この子が生まれたのは2020年、まさに世界中コロナ禍の真っただ中。
日本とベトナムの往来も制限され、お互いの親にも孫の顔を見せられない日々が続いた。
2021年になり、ワクチン接種がハノイ在住者に対しても具体的に検討されるようになった。
最初はワクチン接種に懐疑的だった妻も、それで子供を守れるなら、と考えた末に接種することにした。
11月、2回目の接種を終えた後だった。
どうも副反応らしき腕の痛みが取れず、背中まで痛むようになった。
そして猫砂を変えようと猫のトイレを持ち上げたとき、激痛が妻の背中に走った。
整体や湿布薬を使っても一向に良くなる気配はなく、歩くことさえままならない状況なので日本人医師がいるクリニックで見てもらったところ「ヘルニアの疑いがある」とのこと。
もうすでに重症なので、業界的には繁忙期の12月ではあるものの、優先して帰国させてもらえることに。
12月28日、入国後隔離中の宿泊施設であまりにも耐えがたい痛さの為、救急車を呼んで大きい病院で検査を受けた。
翌日、担当医から診断結果を伝えられた。
病名はスキルス性胃癌。ステージ4の末期で、すでに助からない状態まで悪化していた。
余命3日。
ドラマでも聞いたことがないような、想定し得ない診断結果だった。
担当された先生はまだ小さな私たちの子を見て、泣きそうになるのを必死に堪え、目に涙を浮かべながら状況を丁寧に説明してくれた。
最期はせめて実家の近くで、という本人と義母の意向で兵庫県内の病院に移った。
病院へ行く前、一瞬でも実家に立ち寄ることができた。
これが、彼女の最期の帰省になった。
病院では担当の医師が本当によく手を尽くしてくれた。
妻の為、考えられるありとあらゆる手段を試してくれた。
それでも病気の進行は早く、私たちの祈っていた奇跡は追いつかなかった。
痛み止めの影響で、次第に意思疎通が取れなくなっていく。
妻の言葉も聞き取れず、妻もこちらの言葉に反応できなくなっていった。
10年という長くも楽しい時間を過ごした私、そして妻にとってそれはあまりにも耐えがたい苦痛だった。
1月10日。妻は癌で苦しみぬいた末、壮絶な最期を遂げた。
妻を亡くしてから、時間が過ぎ去るのはあっという間だった。
葬儀、四十九日法要、役所での手続き等々。
休む暇も、自分のことを考える暇もなかった。
ひとり親での子育てとなる為、ベトナムでの仕事、生活にはいったん終止符を打ち、本帰国することにした。
私の状況を理解してくれた企業が愛媛県西条市の工場だった。
株式会社藤田製作所。
40歳も目前、旅行業界一本で生きてきた私は技術も知識もない素人だが、それでも手を差し伸べてくれた。
西条市が子育てしやすい環境であることも手伝って、愛媛県に移住することとなった。
「いつか、個展を開きたいね。」
妻とそんな夢の話をしていた。
妻の生きた証を、私たちが愛したベトナムを、是非多くの人に見ていただきたい。
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以上が、今回の展示会の趣旨です。
私たちの想い、妻の生きた証が皆様の心に届けば、それ以上に幸福なことはありません。
須田卓哉