ハノイに来て最初の仕事は、赤ん坊の子守と家事手伝いだった。住み込みで朝から晩まで働いて給料は15万ドン足らず、その上気むずかしい主人に怒られっぱなし。「お金持ちの人との暮らしは緊張の連続でした。私はいつも何とかして彼らを満足させようとしましたが、いつクビになるかと不安な日々を過ごしました」彼女はそう打ち明けた。
(C) dautu, ダン・ティ・フオンさん(中央) |
涙にくれた夜がどれほどあったかしれないが、彼女は決して家族を責めなかった。彼女にとって母親や兄妹と一つ屋根の下で暮らした記憶は最大の幸せだった。どんなに苦しくても、母の助けになり、兄妹が学校に通えるように、と歯を食いしばり頑張って仕送りを続けた。最初の給料をもらった時、彼女は一家の全財産を預かっているかのように感じたという。
4年間働いた後、彼女は幸運にも知人のツテで教育センターに通えることになった。再び学校に通うという夢が叶ったときは本当に嬉しかったという。しかし、その2か月後には、そんな喜びが吹き飛んでしまいそうな窮地に立たされた。仕事先の家の主人が、夜遅くまで起きて勉強している彼女のことを快く思わず、家から追い出されてしまったのだ。その後、頼れる人もいない彼女は、橋の下の公園で暮らし始めた。日が昇っているうちは物売りをしてお金を稼ぎ、日が沈んでからは補習校に通う。そんな生活が2年も続いた。
「この時は今までの人生で最悪の時期でした。橋のたもとは薬物中毒者や泥棒がのさばる無法地帯。縄張り争いなども日常茶飯事で、我ながらよく2年間もあの生活に耐えられたものだと思います」彼女は当時を振り返りそう語った。