[特集]
77歳女性の終活、「どれだけ生きるかよりどう生きるか」
2024/04/07 10:06 JST更新
(C) VnExpress |
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3月末、ハノイ市ホアンマイ区在住のレ・ティ・ビック・フオンさん(女性・77歳)は、フオンさん自身が手掛けた作詞に合わせて音楽家のグエン・クオンさんが作曲した楽曲のミュージック・ビデオ(MV)の撮影に大忙しだった。
「この曲は、私が死んだ日に発表して、子供や孫、ゲストたちに聴いてもらうんです」。
フオンさんは、15年も前から着々と「終活」を進めている。墓を建てる土地を探し、希望や遺産の分配について子供たちへの遺言書をしたため、ありとあらゆる準備を熱心に行ってきた。
「自分の安住の地を見つけるだけで7年かかりました。あるお墓は『死んだら売る』と言われたり、またあるお墓は私自身が気に入らなかったりね」とフオンさん。
フオンさんが西北部地方ホアビン省の墓地に区画を見つけることができたのは、2010年のことだった。フオンさんは、家風や自身の芸術的なセンスを感じてもらえるよう、自分が入る墓をクラシカルな中庭のようなデザインにした。
「生と死は人間の人生のルールであり、誰も避けることはできません。重要なのは、自分がそれをどのように受け入れるかなんです」とフオンさんは語る。
しかし、フオンさんはいわゆる一般的な葬儀の準備はしていない。フオンさんは子供たちに、自分の葬儀では「葬儀」という言葉を絶対に使わず、「天に帰る母を見送る儀式」と呼ぶように頼んでいる。
また、その儀式のときには、息子と男の子の孫たちはワイシャツまたはジャケットを着なければならず、娘はアオザイと白いズボンを、女の子の孫たちはドレスを着て、きれいにメイクをしなければならない。
さらにフオンさんは、自分の儀式では、一般的な葬儀のように冥銭を燃やしたり、頭に白い布を巻いたり、何よりも泣いたりすることのないよう、みんなに言い聞かせている。
その理由はこうだ。「子供がまだ小さいとき、子供が痛がったり泣いたりしているととても心が痛んで、何とかなぐさめていたんです。でも、私が死んだら、子供たちが泣いていてもなぐさめることはできないし、安心して逝けませんから」。
フオンさんのもう1つの願いは、ゲスト、つまり弔問客には葬儀用の花輪ではなく、切り花や生花のバスケットを持ってきてほしいということだ。「お見送りの儀式」で集まったお金はすべて、重い病気と闘っている子供たちの支援に充てるという。
「こんなふうに、幼いころから他の人とはちょっと違う生き方をしてきたんです」とフオンさん。
フオンさんは9人きょうだいの末っ子で、8年生(日本の中学2年生に相当)のときに学校を辞め、絵画の勉強を始めた。18歳のときに国営企業の経理部で働くようになったが、収入が低かったことから、結婚して1年後、24歳のときに身内の反対を押し切って退職した。
「当時のお給料は、私は46VND、夫は73VNDで、子供を育てるには足りませんでした。でも、他でもっと稼げる自信があったので、会社を辞めることにしたんです」。
フオンさんは、自宅で子供の世話をしながら刺繍をし、メンバー200人のほとんどが教員という刺繍毛糸協同組合を自ら設立した。国営企業の月給が30VNDだったのに対し、フオンさんは退職してから、社長クラスの給料の倍に相当する200VNDを毎月稼ぐようになった。
1976年にベトナムの南北が統一されたころ、フオンさんはアオザイやドレスの仕立てを学び、数百人の従業員を抱える会社を設立した。「多かれ少なかれ、私は必ず収入の25%を貯金していました。私がまだ国営企業で働いていたとしたら、保険に加入するのと同じくらいの額です」。
こうして、フオンさんは夫とともに、安定したキャリアを築けるよう、息子と娘2人を大学院まで行かせた。これで親としての務めは果たしたと感じたフオンさんは、子供たちを集めてこう言った。「今後、年老いて死ぬまで、あなたたちに経済的に頼ることはしません。ただ1つのお願いは、これからの時間を私自身のために生きる時間として使わせてほしいということだけ」。
そしてフオンさんは、夫とも話し合い、これまでのように2人のお金を1つにまとめるのではなく、それぞれが自分のお金は自分で管理することにした。また、お互いがやりたいことを自由にできるということにした。
3人の子供が手を離れたフオンさんは、50歳を過ぎてから初めて自動車の運転免許証を取得した。
自分で自動車を運転できるようになると、かつて父方の祖父母が住んでいた土地を買い戻してそこに祖先の廟を建てようと考え、1人でハノイ市から北中部地方タインホア省まで出かけた。
また、かつて両親が住んでいた土地も買ってそこに記念碑を建てようと考え、南中部高原地方ラムドン省ダラット市にも何度も通った。
フオンさんは「どれだけ生きるかよりどう生きるかが重要だ」という信念のもと、自分自身のために日々を全力で生きてきた。身体がまだ元気だったころは、ベトナムの各地を旅行し、海外も10か国以上に出かけた。
67歳になると、自分の運転でピアノを習いに行くようになった。これは、若かりしころの夢でもあったが、当時は仕事に手一杯で時間がなく、叶えることができなかったものだ。ピアノを習い始めて1年後、誕生日に自分へのプレゼントとしてピアノを購入した。
フオンさんにピアノを教えているグエン・ゴック・トゥアンさんによれば、ピアノ講師歴12年でフオンさんのような高齢の生徒に教えるのは初めてだという。
「年齢もあってフオンさんの指の関節は硬く、最初は私もフオンさんもとても苦労しました。でも、フオンさんは忍耐強く、音楽への情熱もあり、きちんと教室に通って与えられた課題も完璧にこなしています」とトゥアンさんは語る。フオンさんの学びの精神とその若々しさから、トゥアンさんもときどきフオンさんの実年齢を忘れてしまうほどだという。
数か月前には、持久力と身体の柔軟性を高めるために水泳を始めた。自分で自動車を運転して、1人でハノイ市からホアビン省キムボイ郡まで行き、14日間滞在して水泳の練習をしたのだ。
フオンさんは、自尊心と周りの人たちへの配慮を示すためには、どんなときでも健康で美しくいなければならないと考えている。
フオンさんの部屋には大きなクローゼットが2つあり、何百着ものドレスやアオザイがきちんと並べられている。フオンさんは毎晩、女性らしいドレスを着て、軽く化粧をし、ピアノを弾いて動画を撮影する。
「若いころは自分が幸せでいるために着飾っていましたが、今きれいな服を着ているのは、いつなんどき病床に伏せてしまっても、この世の最期の日まできちんとしていたいからなんです」。
フオンさんの義理の娘であるファム・フエンさんによれば、フオンさんの「終活」について子供たちが知ったのは、フオンさんが「終活」を始めてだいぶ経ってからだったが、誰も驚きはしなかったのだという。
フエンさんはこう語る。「義母はずっと、現代的な考え方を持った若々しい人でした。義母と義父は別居していて、我々子供たちの私生活には干渉しませんが、家族が何か困ったときには、いつも助けてくれるんです」。
フオンさんいわく、今のフオンさんのように子供や孫に頼ることなく老後を自分自身のために生きるには、若いときから一生懸命に働き、こつこつと貯金をし、投資もしなければならないという。
そしてフオンさんは、「幸せであろうと苦しみであろうと、今ここにある結果というのは、自分自身の過去の努力次第ですから」と語った。
[VnExpress 06:29 30/03/2024, A]
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