[特集]
モン族の少女の夢を運んだ思い出の自転車
2023/04/02 10:03 JST更新
(C) vnexpress |
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ゴ・ティ・キアさんの父親はかつて、娘には文字を知らない自分とは違う人生を歩んでほしいとの願いから、家じゅうのトウモロコシと引き換えに、キアさんの通学用の自転車を買った―――。
2022年末のある日、茅葺き屋根がまだ霜に覆われている早朝に、教師であるキアさんは通勤かばんを手に外へ出た。娘の足音を聞いて父親のニンさんが駆け寄り、バナナの葉に包んだまだ少し温かいトウモロコシ数本を手渡しながら、休み時間に生徒たちと一緒に食べなさい、と言った。過去23年間、キアさんは何度となく父親からこうした細やかな気配りをしてもらっているが、そのたびに胸がいっぱいになる。
東北部地方トゥエンクアン省イエンソン郡フンロイ村トアット村落の中でも最も貧しいモン族の一家の4番目の娘として生まれたキアさんは、幼い頃から自分がたどるであろう人生の道のりは決して容易ではないことに気づいていた。
3人の姉は、そもそも学校に行かなかった者もいれば、小学3年生を終えて学校を辞め、両親の農作業を手伝い始めた者もいる。この土地では、トウモロコシの若木ほどの背丈しかない子供たちが、一家の財産である水牛を引く手綱を両親から託されている。
キアさんが幼い頃、トアット村落にあるフンロイ小学校は生徒数が10人にも満たず、さらに毎年何人かは途中で来なくなるような状況だった。当時のトアット村落で唯一の教育の場には、おんぼろの小屋と、がたがたの机と椅子3組があるだけだった。教師は郡からはるばる通勤してきて、教壇に立つのと同じくらいの時間をかけて子供たちの家に出向き、学校においでと説得していた。
しかし、ニンさん一家の4女であるキアさんは、他の子供とは違った。キアさんは本が大好きで、学校に来るよう誘いに先生が家を訪れたことは一度もなかった。「一生懸命勉強すれば、人生の苦労も困難もましになるぞ」と、その言葉の意味をまだよく理解できていないキアさんに、先生はいつも言った。その頃のキアさんはただ、先生のような教師になりたいと思っていた。
キアさんにとって、学校に行くということは、苦労ばかりの子供時代の貴重な楽しみだった。当時、フンロイ村にはまだ電気がなかったため、昼食もそこそこに明るいうちに宿題を終わらせ、午後には水牛を引いて畑に行った。夜にはオイルランプの薄暗い光の下で本を開き、両親から寝るように促されるかランプのオイルがなくなるまで、姉や弟たちに本を読んで聞かせた。
ある日、父親のニンさんは古い懐中電灯をどこからか手に入れ、子供たちの枕元に置いてくれた。おかげで5人の子供たちは、宿題をしたり読書をしたりするときにガソリンの臭いを嗅がなくても済むようになった。
5年生の終わり、キアさんは中学校に進学するか、または学業を終えるかという、人生で初めての岐路に直面した。キアさんが両親の決断をそわそわと待つ間、村の人々は「女の子にしちゃもう十分勉強したんだから、とにかくすぐにでも結婚したほうがいいんじゃないか」と言った。それでも、ニンさんは周りの声を振り切って娘をそっと支えることにした。
中学生になると、通学路は15kmと以前の5倍の距離になった。その年の夏、ニンさん夫妻は端境期に備えて蓄えておく予定だったトウモロコシと米の袋を、古い自転車と交換してきた。家族の誰も自転車の乗り方を知らなかったため、子供たち皆が驚いた。
キアさん親子は夏の2か月間、家の前の山道で自転車と格闘し、自転車の乗り方を知らない父親が、どうにか娘に乗り方を教えた。おんぼろの自転車で通学するキアさんを学校の友人たちは笑ったが、キアさんにとってその古い自転車は宝物だった。
朝起きると2つのタイヤの空気が抜けていて、泣いたこともあった。村で唯一の修理屋と学校までの家からの距離は同じくらいだったため、キアさんはやむなく15kmの通学路を歩いた。
しかし、父親は娘を放ってはおかなかった。翌朝早く、ニンさんは壊れた自転車を引き、教科書の入ったかばんを背中にしょって娘と一緒に修理屋へ行き、修理が終わるのを待った。そして、校門に入った娘の姿が見えなくなるまで見送り、ようやく安心して歩いて家に帰った。
トアット村落で小学校を卒業した唯一の女の子だったキアさんは、ついにはフンロイ村で高校に進学した唯一の女の子になった。しかしながら、女の子に多くの学費をかけたニンさん夫妻は、依然として村の人々からおかしな親だと思われていた。
キアさんと同年代の友人たちが次々と結婚し、子供を産み、会社勤めをして携帯電話やテレビなどを購入し、両親にも服を買ってあげたりするようになる中、キアさんの両親は日に日に貧しくなっていった。
寡黙な父親が娘に心の内を打ち明けることはめったになかったが、学費や食費をまかなうためにニンさんが家のものを売っていることを、キアさんは知っていた。ある週末、寄宿学校からひょっこり家に帰ったキアさんは、白米だけしかない両親の昼食を目にした。キアさんは泣き崩れ、学校をやめて工場労働者として働くと訴えたが、父親には叱られた。
「私は意志が弱く、私のせいで両親が苦労しているのを目の当たりにして、何度も学校を辞めそうになりました。でも、父は許してくれませんでした」とキアさん。その時ニンさんは、自分もキアさんの姉たちも文字を知らない人生を送ってきて、もうこれ以上娘には苦しい思いをしてほしくない、と言ったのだという。
その年、キアさんのクラスには32人の生徒がいたが、大学入試を受けたのはキアさんともう1人の2人だけだった。キアさんは、トゥエンクアン省タンチャオ大学の初等教育学部を単願受験した。クラスメイトはどうしてハノイ市の大学に行かないのかとキアさんを責めたが、キアさんはトアット村に戻って教師として働き、両親のそばで暮らしたいと考えていた。
入試でボーダーラインを上回ったキアさんだったが、一向に合格通知が届かず、やきもきする日々を送った。日が経つにつれて徐々に希望も薄れていったが、ここで勉強を辞めてお金を稼いで両親を助けるのもありだ、と自分を慰めた。
2018年8月の終わりのある午後、村役場の職員がニンさんのもとに1通の封書を持ってやってきた。ニンさんは文字が読めなかったが、それはきっと娘が待ち続けている封書に違いないという予感がした。
ニンさんはその封書を持って畑に行き、娘に手渡した。泥のついた手をシャツの裾でさっと拭い、キアさんは急いで封書を開けて、「受かった!」と叫んだ。ニンさんはその紙を手に持って、宝物のように大事に扱った。
「ニンのところの娘が大学に合格した」というニュースは、村じゅうで大きな話題になったが、ニンさん夫妻の財産はもはや、我が子が大学に合格したという誇り以外には何もなかった。
大学生活を振り返ると、キアさんを都市部で下宿させるため、両親は家じゅうの米やキャッサバ、塩辛さえも節約しなければならなかった。
「毎月少なくとも30万VND(約1700円)、多い時で50万VND(約2800円)をもらっていました。両親にとっては大きな負担だったでしょう。両親は凍える夜にも貝や蟹を採りに行き、翌朝売ってお金を貯めて、月末に私が帰省すると渡してくれました」とキアさんは目を赤くして教えてくれた。
2年生の2学期が始まる頃、キアさんが実家に帰ると、思い出の古い自転車が家からなくなっていた。キアさんの学費と生活費に充てるため、両親が自転車を売ったのだった。
小学校から大学までを振り返って、キアさんが得た最大の財産と学びは両親の献身だったいう。キアさんは今や「ニンさん夫妻の4女」ではなく、「トアット村のキア先生」と村の人々から呼ばれている。
フンロイ村に暮らすモン族の保護者たちは、自分たちと同じ土地の出身の教師のもとで子供たちが学べることを喜んでいる。保護者たちは「よく勉強して、キア先生のようになりなさい」と我が子に伝えているそうだ。
2022年の夏、第2フンロイ小学校が企画した職員旅行に、キアさんは両親を誘った。50歳近くになって人生で初めて休暇を過ごす父親を見て、キアさんは嬉しい気持ちと共に切なさも感じた。
「両親は今まで私が前に進めるようにずっと後ろで支えていてくれました。これからは、両親が行きたい場所に、どこへでも一緒に行きたいと思っています」とキアさんは語った。
[VnExpress 06:00 16/02/2023, A]
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