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[特集]

両手を失くした溶接工、自分の生き方を見つけるまで

2022/10/23 10:37 JST更新

(C) dantri
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 農作業をしながら頭の上まで高く積み上がった野菜の荷車を汗だくで押している母親の姿を見て、ゴック・ニュットさんは家に駆け込み、両手を失った自分の無力さを感じて子供のように泣きじゃくった。

 ホーチミン市直轄トゥードゥック市の小さなアパートで、ニュットさんはしゃがんで腰をかがめ、肘のところで切断された自身の両腕を器用に使いながら皿を洗っている。片腕で皿を持ち、もう片方の腕でスポンジを回転させて皿の内側を洗っていく。それから両腕で蛇口をひねり、皿を水ですすぎ、水切りラックに並べていく。

 こうしたニュットさんの日常を撮影した動画がSNS上で注目を集め、数百万回も再生されている。

 「『自分にはできない』と言って自分で自分に役立たずのレッテルを貼る代わりに、『自分はできる』と言って、より良い人生を送るために自分にチャンスと理由を与えるほうがずっといいでしょう」と、ニュットさんは語る。

 ニュットさんは南部メコンデルタ地方カントー市コードー郡出身の23歳で、4人きょうだいの3番目。現在はホーチミン市工業大学(HUTECH)の3年生だ。2014年、1学期末の成績が思わしくなく、落ち込んだニュットさんは中退を選んだ。何よりも、両親の助けになるよう仕事を探してお金を稼ぎたかった。

 溶接工として働く父親を小さい頃から手伝っていたニュットさんは、すぐに仕事が見つかった。事業がうまくいかず閉めてしまった父親の工場を再建することが、ニュットさんの夢だった。働き始めて半年ほどが経ち、ニュットさんはその夢を実現させた。「ゴック・ニュット」という新たな看板を掲げて、父親に代わってニュットさんが大きな案件を受け持つようになった。

 2014年9月のある雨の朝、職人の1人が急いだ様子で近所の現場の作業を手伝ってほしいとニュットさんを呼びに来た。ニュットさんは現場に着くとすぐに建物の屋根に上り、地上にいる職人から長い鉄の棒を受け取ろうとした。しかし、鉄の棒がちょうど屋根の上に届いた瞬間に電線に絡まってしまい、ニュットさんは感電した。身体に電気が走った瞬間に全身が痺れるその感覚を、ニュットさんはいまだに忘れることができないという。

 ニュットさんは地面に落ちて倒れたが、まだ意識はあった。父親を呼びに行くよう職人に頼むことはできたものの、身体は動かなかった。省立病院で1か月近く治療を受けたが、医師から「左腕はすでに壊死しているので、切断しなければなりません」と告げられた。「先生、他に方法はありませんか?」と力ない声で尋ねたが、医師は首を横に振って立ち去り、ニュットさんは涙で枕を濡らした。

 その時、ニュットさんと家族の希望は、残された右腕に注がれた。自分自身を安心させるため、ニュットさんは片腕で生きる今後の人生について考え始めた。どうやって生活し、バイクを運転し、溶接の仕事に戻るのか、イメージしようとした。しかし状況はあまり良くならず、家族は治療のためにニュットさんをホーチミン市に行かせざるを得なくなった。しかし、ホーチミン市に着いた頃にはすでに壊死が骨髄まで到達していたため、右腕も切断しなければならなくなっていた。

 「この先どうやって生きていけばいいんだろう。両親の重荷になってしまうのか……?」と、ニュットさんは何百回も自問したが、答えは出なかった。唯一、確かにわかっていたことは、自分自身で人生を終わらせてはいけないということだった。「僕には兄がいましたが、兄は3歳の時に水に溺れて亡くなりました。僕には母の苦しみがよくわかります。もし、僕まで死んでしまったら、母は生きていけないでしょう」とニュットさんは打ち明けた。

 ニュットさんの母親、ボー・ティ・バンさん(55歳)は、ニュットさんが事故に遭った当時はとても落ち込んでいたが、ニュットさんには落ち込んだ姿を見せまいと、病院の廊下でしか泣かなかった。ニュットさんの未来が明るくないことを家族の皆がわかっていたが、一方でニュットさんはいつも家族を励ましていた。

 退院後、ニュットさんの傷が完全に治るまでにはさらに何か月もかかり、生活の大部分を身内のサポートに頼らなければならなかった。「両親を助けるために学校を辞めて早くから働きに出たのに、今の状況では両親に頼るしかない。この先の人生ずっと世話をしてもらうこともできないのに?」と、ニュットさんは思い悩んだ。

 ある日、家の中に誰もいない中でお腹が空いたニュットさんは、テーブルの上に置かれた白米を見つけると、顔を下に向けてお椀から直接食べた。しかし、自分の食べ方が犬と同じだと気づいたニュットさんは、次の食事の時には自分の両腕でスプーンを押さえ、頭を傾けて食べ物を口に入れた。

 「息子が自分でできないのではないかと心配で、いつもつい手伝おうとしてしまっていたのですが、息子は頑なに受け入れませんでした。時々、息子が歯磨きや洗顔の方法を探っている様子をのぞき見しては、涙が流れました。息子を抱き締めて慰めてあげたい気持ちになりながらも、我慢していたんです。私が泣けば、息子が悲しみますから」と、母親のバンさんは心の内を明かした。

 しかし、すべてを自分で工夫してできるようになった時、ニュットさんは再び孤独に陥った。失ってしまった自分の両手に引け目を感じていたニュットさんは、ほとんど家の外に出ていなかったのだ。

 事故から約2年後、ニュットさんは友人が結婚式で演奏するというのでついて行ったところ、地元で音楽を教えているたくさんの教師たちと知り合った。彼らは、手足を使った肉体労働はできなくても頭を使ってお金を稼ぐことならできるでしょう、と、ニュットさんにもう一度学校に行くよう薦めた。しかし、ペンも持てないのだからとニュットさんはためらっていた。

 ある日、ニュットさんの父親がバイクを売ることになったが、母親は読み書きができず、他の身内もまた中学校も出ていなかったため、書類を書くことができなかった。そこでニュットさんが挑戦してみることになった。くねくねした線の落書きのようではあったが、読んで理解するには十分だった。「もしその時に試していなかったら、自分がまだ文字が書けるということすら知らないままだったでしょう」とニュットさん。

 それがモチベーションとなり、ニュットさんは6か月間の中学4年生 (日本の中学3年生に相当)の補習に登録し、その後は教育センターで高校の教育を受けた。自分はあまり勉強ができない生徒だったという自覚があったニュットさんは、基本的な知識を取り戻すためにオンラインでも自習するなど、積極的に勉学に励んだ。

 ニュットさんを3年間教えていた国語教師のファム・ゴック・チャンさん(女性・36歳)によると、当初はニュットさんが障がい者であることから授業についていけないのではないかと心配していた。しかし実際は、ニュットさんが授業についていけるというだけでなく、ノートの文字まで美しく書いていて驚いたという。「補習は馬に乗って花見をすれば学位がもらえるような簡単なものだと思っている人が多いのですが、ニュットさんは本当に努力を重ねて、3年間続けて全科目で優秀な成績をおさめたんです」とチャンさんは語る。

 大学進学を目前に控えたニュットさんは、「両親に一生自分の世話をさせるわけにはいかない」という考えから、自立して生活していくためにも故郷を離れてホーチミン市の大学に進学した。息子が自分で日常生活を送れることはわかっていたものの、携帯電話の画面越しに古いアパートで暮らしている息子の姿を見て、母親のバンさんは涙を堪えることができなかった。

 家族の心配とは裏腹に、ニュットさんは義手の助けを借りて自分でバイクを運転して通学するなど、ホーチミン市でも充実した生活を送っていることを家族に証明した。最近、バンさんはニュットさんに会いに初めてホーチミン市に行った。携帯電話の画面越しにどんなところに住んでいるのかは知っていたが、実際に見ると掃除が行き届いてきれいに整理整頓されていることに驚いたという。

 さらに驚いたことは、ニュットさんが時々自炊をし、自分で洗濯もし、ランドリーに行く必要もないということだった。ニュットさんは大学でも優秀な学生で、最近では大学で行われたベトナム韓国技術研究所主催の韓国語コンテストで2位に入賞した。「息子は立派に成長してくれました」と、バンさんは涙ながらに話した。

 2年近くをかけて自立した日常生活を送れるようになり、また長い時間をかけて劣等感を乗り越えてきたニュットさんは、同じような境遇にある人たちに自分の経験を共有しようと、短い動画を撮影し、配信するようになった。動画では、歯磨きや皿洗いの仕方、また学校の自動販売機での飲み物の買い方などを紹介している。

 南中部高原地方ダクラク省出身のグエン・バン・ブイさん(男性・32歳)もまた、感電して重度の火傷を負い、両手を切断した。数か月間はひどく落ち込んでいたが、たまたまSNSでニュットさんの動画を見つけ、自分からニュットさんに連絡を取って相談するようになった。そして、今では身内の助けを借りずに自分1人で日常生活を送れるようになった。「彼からの励ましや、前向きで自信に満ちた言葉のおかげで、ネガティブで悲観的なことはあまり考えないようになったんです」とブイさん。

 ある日の夜遅く、ニュットさんは路上のフーティエウ(南部を代表する豚骨ベースの米製麺)屋台に立ち寄った。質素な身なりの宝くじ売りの老人が、通りがかりにしばらくニュットさんを見つめてからニュットさんに近付き、宝くじを渡した。ニュットさんはホーチミン市でよくこのように見知らぬ人から良くしてもらうことがあるという。

 「神様は僕から両手を奪いましたが、代わりにたくさんの新しい道を開いてくれました。人生に躓いても生きてきたからこそ、今も学び続けることができ、ホーチミン市に来てまだまだ人生に愛されていると感じることができ、なんて幸運なんだろうと感じています」とニュットさんは語った。 

[Dan Tri 01/09/2022, A]
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