[特集]
帰郷、そして家族との対面……「異形」のベトナム男児と米国女性の物語
2022/09/04 10:33 JST更新
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東南部地方ビンフオック省ドンソアイ市の住宅地に1台の車が停まった。開いたドアから出てきた若者は、立ち尽くす女性に駆け寄り、ひしと抱きしめた。
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「異形」のベトナム男児と米国女性の物語
その様子を、ニコニコと携帯電話で撮影するのは、米国カリフォルニア州サンディエゴに住む米国人女性ホープさん(51歳)だ。
「会いたかった」。青年を抱きしめる女性リエンさん(37歳)の頬を涙がつたう。面長の顔に太い眉、目、鼻、口、まるで夫と瓜二つの青年を見ると、18年間の苦しみはたちまちに消えた。
その母の肩を、サミュエルことグエン・レ・フン(18歳)がそっとたたく。
リエンさんは、この数日は様々な想いが胸を駆け巡り、眠れなかったという。我が子を孤児にさせてしまった自分に対する怒り、そして、我が子が自分を抱きしめてくれるだろうかという不安。「でも私を見ると、あの子が駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きしめてくれました。これ以上幸せなことなどありません」とリエンさんは言う。
彼女が双子をやどしたのは2004年のこと。だが妊娠6か月目に破水、未熟児で生まれた息子たちは弱々しく、血腫もあった。命を救うべく医師は彼らを、町病院から省で一番大きい病院へと移し、そして2人は最終的には、ホーチミン市第1小児病院の保育器に入る。
リエンさんは出産後、力尽き果て、ベッドに横たわるしかなかった。我が子の顔を見ることもかなわず、目には涙が溢れた。その後、子供の世話はすべて、夫や家族、親戚の手で行われることになったのだが、夫のレ・スアン・フンさんによると、当時、家は貧しく治療費も出せなかったため、仕方なく子供たちを病院に預け、スアン・フンさんはビンフオック省に戻った。
それから1か月ほどしてスアン・フンさんが病院を訪ねると、そこに我が子の姿はなかった。「尋ねると、お兄ちゃん(=サミュエル)はゴーバップ区の孤児院に預けられたと知らされました。弟の行方はわかりません。生きているのか、そうでないのかさえ…」とスアン・フンさん。
家族は何度か孤児院を訪ね、子供を引き取ろうとしたが、孤児院の職員からは、病気が非常に重く、しっかりとした医療のケアを受けなければ死んでしまう、孤児院に置いて養子として引き取ってくれる人を探し、外国で治療させたほうがいい、と勧められた。
2005年、ホープさん夫妻がホーチミン市を訪れ、孤児院に養子を迎える希望を伝え、サミュエルを米国へと連れて行った。サミュエルはまだ、16か月だった。
以来、リエンさん夫妻は、子供の消息を何も得られなくなった。この18年間、リエンさんは子供のことを思い出しても、生後間もなくに撮影された、顔半分が腫瘍に覆われた写真を見て、いつか帰ってきてくれることを願うしかなかった。「ホーチミン市で暮らす兄に頼んで情報を得ようとしましたが、手掛かりはありませんでした。自分の子を育てることもできなかったダメな母親だと、自分を責めるばかりでした」。
一方で地球の裏側では、ありとあらゆる病気と顔の腫瘍を抱えたサミュエルは、ホープさん夫妻の懸命なケアと、5回の顔の手術と2回の目の手術を乗り越えて視力と外見を取り戻した。そして今彼は、大学に入る準備をしている。
我が子の治療に心を傾けながらもホープさん夫妻は、サミュエルに自分のルーツを教えることは忘れなかった。「母からは、実の両親は、僕に治療を受けるチャンスを与えたくて、僕を行かせたのだと聞かされてきました。僕も両親に会いたかったし、両親もきっと僕に会いたいだろうと思っていました」とサミュエルは言う。
ホープさんは何度も、米国に住むベトナム人を頼って実の家族を探そうとしたが、名前と故郷の地名のほか、わかることは何もなかった。
しかしホープさんにも、あまり多くの時間は残されていなかった。乳がんが転移しており、最後の大きな願いとして、息子の実の母親を何とか探し出したかった彼女は今年5月末、大学時代のベトナム人の友人を頼って、英語とベトナム語で情報をインターネットに掲載、様々な団体にシェアした。
するとどうだ、わずか24時間で、ホープさんとサミュエル、そしてビンフオック省の実の母親が、つながった。
サミュエルの情報を実の両親に伝えた人物は、ビンフオック省出身の女性ザンさんだ。彼女はたまたま、米国に住む孫がシェアしたサミュエルの家族探しの情報に触れ、自分と同じ会社で働く人に、家族に長年消息が分からなくなっている子供がいる女性がいることに気づいた。それが、サミュエルの叔母ティエンさんだった。「子供が生きている、実の両親を探していると知らせても、はじめティエンさんは信じませんでした。ですが腫瘍に覆われた顔をした子供の写真を見ると、『あの子だわ』と泣きだしました」とザンさん。
リエンさんはその日のうちに、ホープさんの友人に、自分が母親だと名乗り出た。情報を交換し、サミュエルの小さいころの写真をやり取りしてホープさんは、リエンさんが実の母親であり、DNA検査をする必要はないと感じた。
6月、サミュエルは米国の自宅のパソコンで、地球の裏側からのビデオコールを受ける。画面に映る女性は、手を振ったかと思うと、嗚咽を漏らした。「嬉しくて何も言葉が出ませんでした。画面の我が子の顔を見つめるしかなくて、用意していた『ごめんね』も言えませんでした」とリエンさんは思い出す。
それから何度もの電話が始まったが、通訳の労を考えて、リエンさんは自分でメッセージを送るようにした。子供が生きていると知ってから、想いは募るばかり。電話の通話ボタンを押そうとして、言葉の通じない子供に何と話せばよいのかわからず、そのまま画面を切り替えたことも、何度もあった。「画面を見つめて、ボタンを押して、やっぱりやめて、『おやすみ』とだけメッセージを送って…。どうやって気持ちを伝えればいいか分からなくて…」とリエンさん。
こうして息子と実の家族とを結びつけることができたホープさんはサミュエルに、8月にベトナムに一緒に帰ろう、と約束した。
「これが、私からこの子への18歳の誕生日プレゼントです」。
[VnExpress 06:00 24/08/2022, F]
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