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[特集]

麻薬中毒から自力で抜け出した男性、20年経て中毒者の支援に尽力

2021/05/23 10:10 JST更新

(C) vnexpress
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 レ・チュン・トゥアンさんは、麻薬に溺れる日々から自力で立ち直り、麻薬中毒者の社会復帰を支援する施設を立ち上げ、数百人もの中毒者をサポートしている。

 「母は6回の流産の後に私を出産したため、私は小さな頃から甘やかされていました。これは、私がハノイ市の短期大学に入ってから麻薬に手を染めてしまった原因の1つでもあります」。今年45歳になるトゥアンさんは、自身の人生の最も暗い過去をゆっくりと話し始めた。

 北部紅河デルタ地方ハナム省ズイティエン町出身のトゥアンさんは当時、両親が自分を叱ることはないとわかっていたため、家族に見つかっても公然と麻薬に溺れていた。「今回だけだから、お金をちょうだい」とトゥアンさんは母親に何百回も金銭をせがんだ。

 禁断症状に苦しむ息子の姿を見て、母親のルオン・ティ・バンさんは涙を流し、息子に金銭を渡した。母親の資金が尽きると今度は姉を騙し、家中の金目の物がなくなるとハノイ市へ行き、日に日に増していく薬物への欲求を満たすため、悪事を働いては金を稼いだ。

 息子が麻薬中毒者だという噂が広がり、母親のバンさんは市場に買い物に行っても何も売ってもらえないことが多々あった。トゥアンさんの父親は地元の退役軍人協会の副会長の職についていたが、会員から信頼できないと批判され、職を辞任した。

 トゥアンさんがまだ中毒まで陥っていなかった頃は、トゥアンさん自身も麻薬をやめたいと考えていた。トゥアンさんは父親に、自身を密室に閉じ込め、足を鎖で床につなぎ、鎖の鍵を池の中に投げ込むよう頼んだ。

 しかし、わずか3日間で薬の禁断症状が出て、トゥアンさんは獣のように暴れて部屋のドアとシャッターを破壊し、鎖が繋がれているコンクリート片を引きずったまま、薬を探しに出て行ってしまった。思う存分に「遊んだ」後、トゥアンさんは母親に土下座し、「今度こそ、麻薬を断ち切ると約束します」と伝えた。

 トゥアンさんは強い決意を表明するため、母親に頭を剃ってもらい、シャベルとバール、バケツを引っ張り出し、家の周りに200m2の広さの壕を掘った。壕は梯子を使わなければ下に降りられないほど深く、父親のレ・バン・トゥイさんが妻に「トゥアンは戦時中みたいなトンネルを掘っているぞ」と伝えるほどだった。

 それから1か月以上が経つと、トゥアンさんは麻薬を欲しなくなっていた。体重は10kgも増え、肌は赤みを帯び、目は輝きを取り戻した。そして周囲の誰もがトゥアンさんの決意を信じ、賞賛した。

 トゥアンさんが「人生を変えた」のを見て、麻薬中毒仲間の1人が中毒から抜け出す方法を教えて欲しいと頼みに来た。しかし、2人で麻薬を摂取したときのことを思い出すとトゥアンさんの身体は火照りだし、仲間に麻薬を買いに行くよう頼んでしまった。こうしてトゥアンさんは、再び自身を麻薬に売り渡してしまったのだった。

 その後、トゥアンさんは薬物依存症治療施設に連れて行かれたが、施設でグループのボスと争い、結果的に一団のトップとなった。しかし、年老いた母親が差し入れを持って訪ねてきたのを見て心が痛み、グループの後輩に頼んで足の裏に「幸福(Hanh phuc)」という文字の刺青を入れてもらった。

 そして、「自分も、この施設にいる中毒者も皆、これまで自分自身の幸福を踏みにじってきた」と語り、改心することを決意したが、それも数時間しか持たなかった。施設の門を出て、2年前によく座って麻薬を打っていた木の側を通りかかると居ても立ってもいられなくなり、トゥアンさんはそのまま家に帰らずに麻薬中毒の仲間を探しに行った。

 トゥアンさんは「改心してはまた中毒に陥る」という悪循環を100回は繰り返し、トゥアンさんの過去を受け入れた勇気ある妻も耐え切れなくなり、とうとう離婚を決意した。その瞬間、トゥアンさんは「自分にはもう失うものは何もない」と考え、麻薬を買いに走り、自殺を図って静脈に注射した。7時間が経っても意識は戻らず、近所の人たちはトゥアンさんの棺桶と葬式について話し合いを始めた。

 翌朝6時、トゥアンさんは目を開けた。そして、真新しい服を着せられ、手足は縛られ、死者の装いをさせられていることに気づいた。両親は突然起き上がった息子を目にし、恐怖のあまり両手を天に向けて絶え間なく祈った。トゥアンさんの乾いた口元に涙が流れ、「死ぬこともできないのなら、人として生きていくしかない」と嘆き、両親や近所の人たちの前で再び改心を誓った。

 それから3日間、トゥアンさんは今度こそ薬物を断つため、タンクの水に浸かった。トゥアンさんの父親は、息子が禁断症状からタンクの壁に頭を打ち付けてしまうのではないかと恐れ、すぐ側に椅子を置いて座り、時折息子の頭を撫でて励ました。半月ほど家に閉じこもり、トゥアンさんはついに麻薬中毒から抜け出した。

 この改心のおかげで、2001年にトゥアンさんは再婚した。トゥアンさんより7歳年下で、隣の村に暮らすファム・ティ・バンさんが、両親や村の人たちの反対を押し切ってトゥアンさんのもとへやってきたのだ。そして2人は借金をして、養鴨場を始めた。

 あるとき、トゥアンさんが結婚式に参加するため隣の村へ行くと、昔の麻薬中毒仲間に会った。トゥアンさんは衝動を抑えきれず、麻薬を打つために仲間と一緒に墓地に行った。シリンジを手に持ち、薬を注射しようとしたその瞬間、妻と生まれたばかりの娘の顔が浮かんだ。

 トゥアンさんは慌てて注射器の中の薬を捨て、痛みで禁断症状が消えるように針で自分の太ももを何度も刺した。その夜、家に帰るとトゥアンさんは血まみれの太ももを妻に見せ、2人は喜びの涙とともに抱き合った。トゥアンさんは、自分が完全に麻薬を断つことができたのだとようやく実感した。

 養鴨場の経営に失敗したトゥアンさんと妻のバンさんは、中古バイク販売や不動産販売など様々な仕事をしながら資金を貯め、南中部沿岸地方フンイエン省でタクシー会社、南中部高原地方ダクノン省でトラック運送会社を立ち上げた。

 商売が順調に進む中、トゥアンさんが薬物依存症治療施設で一緒に過ごした友人が殺人罪で死刑判決を受けたというニュースを読んだ。「もし助けを得られていれば、彼の人生はこのような結果にならなかったでしょう。私と同じように、間違いを犯した人間が人生をやり直せるよう、何か手助けをしなければと決心したんです」とトゥアンさん。

 トゥアンさんは全財産を売り払い、家族と一緒にハノイ市へ向かった。そして、これまでに蓄積した知識と専門家や科学者のサポートにより、「PSD麻薬使用者心理学研究所(Institute of Psychological Studies and Support To Drug Users)」を設立した。

 これは現在の「PSD薬物防止応用研究所(Institute for Research and Application on Drug Prevention PSD)」の前身となるもので、麻薬中毒者はこのセンターで心理学的サポートや身体的リハビリテーション、また社会復帰支援を受けることができる。

 「社会への負債返済」としてのトゥアンさんの取り組みは、アジア太平洋地域の経済社会開発協力を目的とした国際組織「コロンボ・プラン」から、麻薬の防止や危害の軽減に関する人材育成や訓練といったサポートを受けている。

 9年間の薬物使用の後にPSD研究所を訪れたキム・トゥアンさん(男性・31歳)は現在、研究所の心理カウンセリング専門員を務めている。PSDが他の療養施設と最も大きく異なる点は、自身を尊重して扱ってくれたことだとキム・トゥアンさんは当時を振り返る。

 「特に私はトゥアンさんから意義のある人生の教訓を学びました。私と彼は、まともな教育を受け、家族の関係も良好だったにもかかわらず麻薬中毒に陥ってしまったという共通点があります。それでも彼は立ち上がることができたので、私にもできるはずです」とキム・トゥアンさん。

 現在までに、研究所では230人以上の麻薬中毒者の治療に成功している。トゥアンさんは治療支援のほかに、水産業や不動産業、メディア業などを手掛ける企業を設立した。そして、キム・トゥアンさんのように治療に成功した多くの人々に向けた雇用機会を創出している。 

[VnExpress 05:05 13/04/2021, A]
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