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[特集]

中国に売られたベトナムの少女、9年越しの帰郷とこれから

2020/09/20 05:26 JST更新

(C) vnexpress
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 9月のある日、キムさんは姉と母親に付き添われ、身分証明書を作るために村の人民委員会を訪れた。そして、22年間の人生で初めて「故郷」を手に入れた。

 北中部地方ゲアン省キーソン郡ターカ村に暮らすカー・ティ・キム・ザンさん(女性・22歳)は、普段は「キム」と呼ばれている。身分証明書を手にしたキムさんは、9年前に売り飛ばされたときとは違い、今度は合法的に中国へ行くつもりだ。

 「中国には仕事があり、2年間お付き合いしている恋人もいます。一方、故郷のベトナムでは、母も姉もそれぞれ新しい家族があり、友人たちももう結婚しているので、再会の喜びが落ち着いた後は自分がはみ出し者のような感じがしています。生活や食べ物にも慣れません」とキムさんは説明した。

 キムさんは中国に戻ることを決めているが、母親のセオ・ティ・オアインさんは、娘にはもう二度と遠くへ行ってほしくないと思っている。「娘が恋しく、そばにいたいんです」と、コム(Kho Mu)族のオアインさんは話した。

 9年前、オアインさんは地元で農業をしながら1人で3人の幼い子供と夫の両親を養っていた。夫は重度の麻薬中毒で、家の中のあらゆるものを売り払ってしまった。母親を不憫に思ったキムさんは、半日は学校に行き、半日は畑で野菜を収穫して市場に売りに行った。

 12歳のとき、キムさんは身内の1人から、皿洗いの仕事をしにラオスへ行かないかと誘われた。母親はまだ畑にいたため、キムさんは服を持って家を出た。

 しかし、ラオスに行く代わりに、キムさんは中国に売り飛ばされてしまった。当初は河南省安陽市の農家の長男の嫁として買われたが、やせ細って肌が黒く、さらに一家の末っ子よりも年下のキムさんを見た買い手は、嫁ではなく養子として育てることにした。

 「身分証明書がなかったので、学校にも行けませんでした。養父母はペンとノートを買って、私に中国語を教えてくれました」とキムさん。しかし、キムさんが新しいノートに初めて書いた文字は、ベトナムにいる両親ときょうだいの名前、そして実家の住所だった。キムさんは、新しい暮らしと時間のせいで、自分が故郷のことを忘れてしまうことが怖かったのだ。

 毎日、キムさんは養父母について畑を耕し、鶏の世話をし、野菜を栽培した。最初は中国語がわからず、食べ物も口に合わなかったため、キムさんはただうつむいて黙っていた。

 そして毎晩、母親に対する恋しさと見知らぬ地にいる恐怖から、眠れない夜を過ごした。大声で泣くことはせず、こっそりと枕を涙で濡らした。また売り飛ばされてしまうのではないかといつも恐れ、2年もの間、誰とも口をきかなかった。心の中では自分を探してくれない母親を恨んでいた。

 一方、キムさんがいなくなってから1か月後のベトナムでは、キムさんを売って地元に戻った身内が母親のオアインさんに、キムさんは皿洗いの仕事をするためラオスに渡り、年末に帰国する、と伝えていた。

 しかし、2度のテト(旧正月)を迎えてもキムさんは一向に姿を現さず、オアインさんは何か情報がないかとキムさんのことを伝えてきた身内を訪ねたが、この人物はすでに行方をくらましていた。

 キムさんがいなくなって3年目、オアインさんは、例の身内が不法に人身売買をしていたことを知り、自分の娘も売り飛ばされたのだということに気づいた

 オアインさんは娘を探しにラオスへ渡ろうとしたが、周囲の人々は、広大な国でキムさんを見つけられるはずもなく、幼い2人の子供の面倒も見なければならないのだから、と制止した。

 その後、今から3年前にオアインさんは麻薬中毒で刑務所に入った夫との関係を断ち、2019年に別の男性と新たな人生を歩み始めた。オアインさんは、いつか娘が実家へ帰ってきたときに迎えてあげられるようにと、男性には自分の家に入ってもらい同居した。

 一方の中国で、身分証明書がないキムさんは隠れながら生活していた。売り飛ばされてから4年が経ち、養父母はようやくキムさんが好きなところへ行くことを許可した。そこでキムさんは、労働者として働くために広東省へ行った。稼いだお金を養父母へ送ったが、養父母は受け取らなかった。

 キムさんは友人にベトナムに帰国する方法をたずねたが、友人は首を横に振るだけだった。「友人は、ベトナム人の知り合いもいないからと、中国の警察に行くよう私に勧めましたが、私は警察には行きませんでした」とキムさん。今から2年前、キムさんは服を売りに行く仕事を始めた。このころはすでに、ベトナム語もほとんど忘れてしまっていた。

 「誰も信用していませんでした。身分証明書もありませんでしたし、また売り飛ばされてしまうのではないかといつも恐れていました」。そして今年の5月になり、キムさんはSNSのウィーチャット(WeChat)でベトナム人を見つけ、家族を探すための情報をフェイスブック(Facebook)に投稿してほしいと頼んだ。

 「彼女は売り飛ばされたと言っていました。家や両親が恋しく、中国での暮らしも自由がなく家族のもとに帰りたい、と。キムさんの真剣な様子から、私はフェイスブックに情報を投稿しました。彼女を傷つけたくなかったので、多くはたずねませんでした」と、ウィーチャットを介してキムさんと知り合った中国在住のベトナム人のフオンさん(男性・22歳)は語った。

 たまたまSNSの投稿を目にしたターカ村祖国戦線委員会のクット・シー・オン副委員長は、投稿に書かれた情報の人物がキムさんであることに気づいた。オン副委員長はすぐに投稿者のフオンさんに連絡をとった。

 「私はターカ村人民委員会のホールに立って撮った自分の写真をフオンさんに送り、キムさんに見せるよう頼みました。彼女が信用すると、フオンさんはようやく私とキムさんをつないでくれました」とオン副委員長は語った。

 ゲアン省警察の刑事警察部が捜査に乗り出し、キムさんを保護してベトナムに帰国させるため、関連当局に連絡をとった。そして、キムさんはベトナムへ帰国し、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う規定の隔離期間を経て9年ぶりにゲアン省の故郷に帰ることとなった。

 8月29日、キムさんはハノイ市の隔離センターからゲアン省の実家に向かった。かつては山腹沿いの道には草が生い茂っていたが、今では広々としたタイル張りの家屋が建っている。キムさんはそわそわし、不安と緊張で黙りこくっていた。

 車が停まると、母親のオアインさんが駆け出して娘を抱きしめた。いつも肌が黒かった少女は、今や1人の女性になっていた。それでも、顔の輪郭は変わっていなかった。「お母さん、お母さんが恋しかったよ」。隔離施設でベトナム人と14日間を過ごしたことで、キムさんは9年間封印していたベトナム語をいくらか思い出すことができていた。

 再会には、多くの涙があった。キムさんは母親の目をずっと見つめていた。「お母さんが年をとってしまっていたので悲しかったです。目も落ちくぼんでしまって」とキムさんは言った。

 その夜、母親と子供たちは9年前のように小さなベッドに4人で並んで横たわった。母親はキムさんを再び失ってしまうことを恐れているかのように、キムさんの手を握りしめた。母親は、故郷の変化についてあれこれと話したが、キムさんが自分から話すよう、何かをたずねることはほとんどしなかった。娘の悲しげな目をもう見たくなかったのだ。

 帰国して数日、キムさんのベトナム語はまだ流ちょうでなく、伝えられない言葉、聞き取れない言葉も多い。

 「キムさんはまた売り飛ばされてしまうのではないかといつも恐れていて、本当にかわいそうです。家族が紹介しない限り、見知らぬ人とは会話をしません」と、オン副委員長は語る。キムさんは辛いものやもち米が食べられず、帰国してから食事も十分にとれていない。

 愛する娘のため、オアインさんは離れていた日々を埋め合わせるように努めた。帰国してからの10日間、いつも娘に何が食べたいかたずねてそれを作り、どこに行きたいかたずねてそこへ連れて行った。

 しかし、一方のキムさんは、パスポートを取得する手続きが終わったら、9年間慣れ親しんだ中国での生活に戻りたいと思っている。

 キムさんは、心の隙間を埋めようとしても埋めることはできないのだと認めた。「でも、家族を見つけることができて、1人の国民として認めてもらうことができて良かったです。今は、どこにいても私は故郷やルーツ、家族がある人間だと断言できますし、私はカー・ティ・キム・ザンなんです」。キムさんは、限られたベトナム語でぎこちなく言った。 

[VnExpress 05:05 09/09/2020, A]
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