[特集]
ベトナムで最初の女性医師、アンリエット・ブイ・クアン・チエウ
2020/03/01 05:31 JST更新
(C) dantri、25歳のアンリエット女史 |
(C) dantri |
2月27日は「ベトナムの医師の日」で、医療の伝統を重んじ、国民の健康に貢献した団体と医療関係者を顕彰する日となっている。
西洋医学が入ってくる前、ベトナムでは病気の治療というと祈祷師や助産師、漢方薬に頼っていた。しかし、ベトナムがフランスの植民地支配のもとに置かれると、国内でも医師や診療所のシステムが徐々に広がっていった。
ベトナム人もそれに従い、西洋医学にアプローチするようになった。こうした中、アンリエット・ブイ・クアン・チエウ(Henriette Bui Quang Chieu)女史は、ベトナムで最初の女性医師となった。
アンリエット女史は、1945年以前のナムキー(南析)で特に名が知られていたブイ・クアン・チエウ(Bui Quang Chieu)氏の娘だ。父親のチエウ氏はフランス留学の経験があり、農業関連の技術者だった。父親のチエウ氏は政治の分野でも活動し、立憲党の創立や報道の自由などに貢献したほか、多くの学生のフランス留学を支援した。
2018年9月3日付けのトイダイ(Thoi Dai=時代)紙の記事「最初のベトナム人女性医師は誰か?(Nu bac si nguoi Viet dau tien la ai?)」によると、アンリエット女史は有名な政治活動家の娘だったこと、またフランス国籍を有していたことから、お金も十分にあり、フランスとベトナムの先進的な教育を受けた。そして後にフランスへ留学し、ベトナムで最初の女性医師となったのだ。
幼い頃、アンリエット女史はサイゴン(現在のホーチミン市)にあるサンポール・ドゥ・シャルトル学校に通った。1915年に卒業し、コレージュ・デ・ジュンヌ・フィーユ学校(現在のホーチミン市3区グエンティミンカイ高校)へ進学した。
アンリエット女史が医学の道へ進んだのは、フランス留学がきっかけだった。また、サイゴンで有名な結核の医師だった兄のルイ・ブイ・クアン・チエウ(Louis Bui Quang Chieu)氏の影響も受けた。
アンリエット女史は1926年にフランス・パリのリセ・フェヌロン高校を卒業し、翌年にパリ医科大学の学生になった。青春時代を勉学に捧げ、講義室と研究室で7年間を過ごした後、1934年に優秀な成績で大学を卒業した。卒業論文は審査員から賞賛され、賞も授けられた。
アンリエット女史はフランスで学位を取得してベトナムに帰国し、医学分野の道に進んだ。当時のベトナムは、ベトナム人の医師もまだ少なく、ましてや女性医師などいない時代だった。さらに、当時はどんな分野においてもフランス人がベトナム人を軽視していた。それでも、アンリエット女史は1935年に29歳でチョロン病院の助産科長に就任した。
当時、多くのベトナム人にとって病院や診療所、そして西洋医学の科学的手法は馴染みのないものだった。それだけでなく、アンリエット女史はフランス人の同僚からの偏見の目などもあり、多くの困難に直面した。
その頃のベトナムはフランスによって植民地化されていたため、フランス人の「安南(フランス植民地時代のベトナム北部~中部の地域)人」に対する差別の目があった。この差別により、フランス人がベトナム人の同僚を蔑視したり、フランス人医師とベトナム人医師の賃金に差が生じたりしていた。
そんな中でアンリエット女史は、ベトナム人医師とベトナム人患者の正当な権利を主張して上司と真っ向から戦い、仕事への愛と民族の誇りによってこうした困難を乗り越えた。
例えば、病院長がフランス人だった時、病院長はアンリエット女史にワンピースを着るよう求めた。理由は、ワンピースを着ればフランス人の同僚から尊敬と平等の意を示してもらえるが、そうでなければ産科医でなく助産師としてしか見てもらえないから、ということだった。しかし、アンリエット女史は自尊心と民族の誇りからその要求を拒否し、ベトナム人の服を着続けた。
アンリエット女史は44年間のキャリアの中で、ベトナムで働くこともあれば、トレーニングのためフランスへ渡ることもあった。1957年には日本にも行き、産科に応用するため鍼治療の技術も学んだ。1961年からはフランスに拠点を移し、自身のクリニックで診療を行った。
1970年にベトナムへ帰国すると、東北部地方フート省の病院の小児科と産科でボランティアとして奉仕することを志願した。1971年には再びフランスへ戻り、1976年まで仕事を続けた。その後、2012年4月27日にパリで逝去した。106歳だった。
私生活では、父親の取り計らいにより、立憲党員であり弁護士であるブオン・クアン・ニュオン(Vuong Quang Nhuong)氏と結婚した。当時、この結婚は国民から注目を集めた。しかし、2人は人生における共通のものを見つけ出すことができず、1937年にわずか2年間の結婚生活にピリオドを打った。
その後、1960年代初頭にフランスにいた頃、グエン・ゴック・ビック(Nguyen Ngoc Bich)氏と出会い恋に落ちたが、ビック氏は咽頭がんを患い2人が夫婦になって数年後に逝去した。
仕事に献身的に取り組んだだけでなく、アンリエット女史は当時のテスタール(Testard)通り28番地にあった私邸を、サイゴン大学研究所傘下のサイゴン医科大学のキャンパス用に寄付した。現在、この場所はホーチミン市3区ボーバンタン(Vo Van Tan)通りの戦争証跡博物館の一部となっている。
[Phap Luat Thanh pho Ho Chi Minh 10:16 27/02/2020, A]
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