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[特集]

2人のマルティーヌ、アフリカに渡り王女となったベトナム人少女たちの運命

2019/09/15 05:06 JST更新

(C) VnExpress
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 1970年11月末のことだった。17歳のマルティーヌは父親に会うためにアフリカへ渡りリムジンバスに乗るまで、旧サイゴンの路上でタバコ売りをしていたごく普通の少女だった。浅黒い肌と巻き毛をしたマルティーヌは、自分の父親が1946〜1954年にインドシナのフランス軍に加わった兵士だということを知っていた。

 ベトナムにはアフリカ人の兵士を父親に持つ子供はマルティーヌの他にもいたし、それぞれのエピソードがあった。しかしマルティーヌの物語はその中で最も数奇な物語だろう。マルティーヌは路上のタバコ売りから中央アフリカ帝国のジャン=ベデル・ボカサ皇帝(ボカサ1世)の娘として王女となったのだ。

 ジャン=ベデル・ボカサは中央アフリカ共和国がまだフランスの植民地下にあった1921年2月22日に生まれ、18歳でフランス軍に入隊した。1953年にベトナムに渡るとベトナム人女性と知り合い、夫婦のように暮らすようになり女の子を儲け、マルティーヌと名付けた。

 1954年のディエンビエンフーの戦い後、フランス軍はベトナムから撤退しボカサもベトナムを後にした。1960年に中央アフリカ共和国が独立すると、従兄にあたるダヴィド・ダッコが初代大統領に就任し、ボカサを軍参謀総長に任命した。

 その6年後、ボカサは軍事クーデターにより政権を奪取し、翌1967年に2代目大統領に就任した。その後は20人近くの女性と100人の子供を儲けたと言われているが、認知した子供は50人に留まる。ボカサ大統領はマルティーヌの母親のほかに、別のベトナム人女性とも結婚したが、1961年に離婚している。

 圧倒的な地位を築き悠々自適に過ごしていたボカサ大統領は、ベトナムに残した家族へ想いを馳せるようになった。そして1970年に旧サイゴン政府とフランス領事館に連絡を取り、「1953年生まれでマルティーヌという名前」というわずかな手掛かりを元に生き別れになった娘の捜索を要請した。捜索開始後すぐに17歳のタバコ売りの少女が見つかり、その母親も娘の父親はボカサ大統領だと認めた。

 吉報を受けたボカサ大統領はすぐにベトナムから中央アフリカ共和国の首都バンギに行く片道切符を買い、2500フラン(現在のレートで27万3000円)と併せてマルティーヌに送るようフランス政府に要請した。

 1970年11月26日午前3時にマルティーヌがバンギに到着すると、賑やかな楽器演奏のなかボカサ大統領と高官らが出迎え、ボカサ大統領はマルティーヌを力強く抱きしめた。ベトナム語しか知らず現地のダンスも踊れず戸惑いを隠せないマルティーヌに、ボカサ大統領はベトナム語で継母やマルティーヌの兄弟を紹介した。

 父娘の再会はハッピーエンドで終わったかのように見えた。ところが奇跡の再会から1か月も経たないうちに、サイゴンの日刊紙が「バンギにいるマルティーヌはボカサ大統領の本物の娘ではなく、フランス政府がボカサ大統領を辱めようと故意に仕立てた偽者だ」と報じたのだ。

 事実、当時はベトナム人とアフリカ人の間に生まれた子どもは少なくなく、フランス映画の人気女優だったマルティーヌ・キャロルから取ってマルティーヌと名付けられた少女が多くいた。

 この報道を受けて、ボカサ大統領との間に「マルティーヌ」という名の娘を儲けたベトナム人女性のグエン・ティ・フエ本人が声をあげた。フエは友人の新聞記者を介してボカサ大統領に電話で連絡を取り、自分とボカサ大統領が一緒に写った写真とマルティーヌの出生証明書を公開し、自分がボカサ大統領と夫婦のような関係にあったこと、そして自分の娘こそがボカサ大統領の本物の娘のマルティーヌであることを訴えた。

 フエのアピールにより、ベトナムで工員をしていたマルティーヌがフエとボカサ大統領の間に生まれた本物の娘だと認められ、無事にベトナムからバンギに渡ることとなった。一方で、ボカサ大統領は先にバンギに渡っていた偽マルティーヌを国外追放に処すつもりで一度は投獄したものの、50歳の誕生日を機に偽マルティーヌに対する慈悲として正式に養女として迎え入れることにした。

 その後、本物のマルティーヌは「大きなマルティーヌ」、偽マルティーヌは「小さなマルティーヌ」と呼ばれるようになった。2人のマルティーヌは一緒に暮らし、同じ服を与えられた。大きなマルティーヌは商才に長け、1972年に中央アフリカ共和国でベトナム食品を販売する商店を開業し成功した。

 1973年、ボカサ大統領は、後にボカサ治安部隊を率いる長となったフィデル・オブロウと小さなマルティーヌを、医師のジャン=ブルーノ・デヴェボードと大きなマルティーヌを結婚させた。

 1976年、ボカサ大統領は自分のことを皇帝と宣言し、2人のマルティーヌは自動的に王女となった。しかし、ここから2人のマルティーヌの人生は大きく変わっていくこととなる。

 ボカサ皇帝の独裁に周囲の人々は不満を募らせ、小さなマルティーヌの夫オブロウと補佐官らがボカサ皇帝の暗殺を企てるも失敗し処刑されたのだ。夫の死から数時間後、小さなマルティーヌは男の子を出産した。しかしボカサ皇帝は娘婿への仕打ちとして生まれたばかりの赤ちゃんと小さなマルティーヌをデヴェボード医師の病院へ送り込み、赤ちゃんに毒薬を注入させて死に追いやった。

 赤ちゃんの死後もボカサ皇帝は小さなマルティーヌを皇室の一員とみなし、1年後には小さなマルティーヌをベトナムへ一時帰国させることを発表した。ところが小さなマルティーヌは空港へ向かう途中で姿を消し、何者かによって暗殺されたとみられている。

 1979年にはクーデターによりボカサ政権が崩壊。ボカサ皇帝は大きなマルティーヌを始めとする子供たちとフランスに亡命した。その後帰国し隠居生活を送っていたが、1996年に死去した。

 大きなマルティーヌの長男であるジャン=バルテロミー・ボカサは現在もパリに住んでおり、2014年には家族に関するインタビューに答えている。それによると、大きなマルティーヌはフランスでベトナム料理店を2店舗と、母方の祖母と宝石店や日用品店を経営しているという。 

[VnExpress 09:53 22/8/2019, T]
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