[特集]
運命の巡り会わせ、ベトナム人とフランス人の2人の母を持つ少女
2018/09/02 05:49 JST更新
(C) VnExpress |
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チュオン・ビー・ムニエル・ミシェルさんは生まれた時から実母と離ればなれになった。しかし、その後は運命の巡り合わせで2つの家族に恵まれた。
8月初旬のある暑い昼、ホーチミン市から南に車で2時間ほどのメコンデルタ地方ベンチェ省バーチー郡フーガイ村フーロン集落にある墓地を3人の女性が歩く。中肉中背で日に焼けた肌に幸せな笑みを浮かべるベトナム人女性コン・ティ・トゥー・チャンさんは、背中におんぶしている細身の少女に向かって冗談を言う。
「あなた、子ザルみたいに軽いじゃない」。そのすぐ横をブロンドの髪の毛をした欧米人女性アニエス・ムニエル・ミシェルさんがついて歩いている。2人の中年の女性は住むところも話す言葉も違えど、1人の15歳の少女へ深い愛情を注いでいる。
「妊娠6か月の時、お腹にいたビーは先天性水頭症と診断されました。生まれても生き延びられないからと中絶を勧められました」とチャンさん。チャンさん夫妻はすがる思いでホーチミン市ツーズー産婦人科病院を受診した。ただ、そこでも治療法はなく経過観察のなか出産の日を待った。
妊娠7か月と10日目の2003年5月6日夜に陣痛が始まった。母体の安全を考えて帝王切開を勧める医師たちの声をよそに、チャンさんはいきみ続け自然分娩でビーさんを生んだ。それは小さく紫色で、目をじっと閉じたままのビーさんは直ぐに保育器に入れられた。見舞いに来た夫に娘の様子を聞くと、医師たちが頑張ってくれているとのことだった。
退院の日を迎え、チャンさんは初めて愛娘が生き延びられなかったことを知らされ涙した。入院中のチャンさんを置いて愛娘の亡骸を故郷へ連れて帰り葬ることはとてもできないと考えた夫は、病院で火葬する申請書類にサインをしたのだ。チャンさんは同室患者の家族から、書類にサインした後のチャンさんの夫は魂が抜けたようだったと聞いた。
チャンさん夫妻は「娘は私たちとは縁がなかったんだ」と自分たちに言い聞かせて、荷物をまとめると1か月近く留守番をしていた長男が待つ故郷へ帰った。
時は流れて2007年11月のある日、アニエスさんは1万km離れたフランスからベトナムへ養子縁組に訪れた。当時50歳だったアニエスさんは、ホーチミン市ゴーバップ区にある児童養護施設の庭で遊ぶ、黒い瞳をした4歳の女の子を見た瞬間に養子にするならこの子しかいないと直感した。この少女こそがビーさんなのだ。
ツーズー産婦人科病院によれば、患者のカルテや書類は保管期限の10年を過ぎると破棄されるため、現在ではビーさんの出生に関する情報は残っていないという。しかし、ビーさんは亡くなるどころか、数回の手術を受けて脳から胸にかけてチューブを埋め込んだ状態ながらも元気に生きていたのだ。
ビーさんが養子としてアニエスさん一家に迎えられるまでに1年以上かかった。アニエスさん夫妻はビーさんの写真や書類から彼女が病気を患っていることは知っていたが、そんなことは構わなかった。
その後7年間に、ビーさんは4回の手術を受けた。「私たちはこの先に何が起こるのだろうかとあまり考えないようにしていました。なるようになる、困難が生じてもみんなで全力を出して乗り越えようとだけ考えていたんです」とアニエスさん。
専門医師によると、水頭症の患者は体内のチューブの詰まりや感染を防ぐために3~4年に一度手術が必要だという。フランスへ渡って数週間後、ビーさんはリール市の病院に入院して古くなったチューブを交換する手術を受けた。ビーさんが顔を左に向けると、首の右側に1本の筋が浮き出るのが分かる。
「みんな首の筋を見ると血管だと勘違いするんです。チューブだと分かると誰もが驚くんですよ」。そう言ってビーさんは洋服をめくりあげて、腹部にある4つの術痕を見せる。それぞれ2008年、2010年、2013年、そして2014年に手術した時の痕だ。
アニエスさん一家はパリから北東へ車で2時間ほどにあるシャンパンの地として知られるランス市にある一軒家に住んでいる。寝室4部屋に、ダイニングテーブルには家族6人の椅子が置かれている。アニエスさん夫妻は結婚当初、4人の子供を授かることになるとは夢にも思っていなかった。長女を出産後、夫妻は言葉にできない物足りなさを感じ、外国人の養子を迎えたいと考えたという。「私の夫はベトナム人の母を持つ異母姉弟がいたので、ベトナムという国に愛着があったんです」とアニエスさん。
ベトナム人を養子に迎える外国人は複雑な手続きがあり、履歴の証明からベトナム人の養子の外国籍取得まで1年以上がかかる。1998年、アニエスさん夫妻は初めてベトナム人の男の子トゥンを養子に迎え、2001年に女の子ヒエンが、2007年にビーさんが家族に加わった。
医師によれば、医療の進歩により先天性水頭症による子供の死亡率は5%以下まで下がっているが、児童養護施設で困難な状況下で暮らす場合は10歳ほどで死亡することが多い。「あの時フランスへ渡っていなければ、今のビーはなかったでしょう」とビーさんが育った児童養護施設に20年以上勤める職員は語る。
一方、チャンさん夫妻は故郷で日常生活に戻っていたが、誰にも知らせることなくツーズー産婦人科病院へ赴き、亡き娘の遺灰を探したこともあった。「私たちの心は空っぽになり、とても辛い日々でした」と涙を拭う。
ところが2007年10月のある朝、近所の女性がチャンさんに小声で尋ねた。「あんた、ツーズー産婦人科病院で女の子を生んだんだったよね?その子、まだ生きてるよ」。警察が書類を持って村の人民委員会へ来て、チャンさん夫妻を探し回っていたとのことだった。しかし、まさか夫妻が子供を捨てたなどあり得ないと警察の話を信じなかった人民委員会の幹部は、警察にチャンさん夫妻の住所を明かさなかったという。
チャンさんはすぐに人民委員会へ行き書類を確認すると、書面に記載された生年月日は確かに娘と一致し、愛娘の写真が貼られていた。「本当にあの子だわ、私の子」とチャンさんは泣き崩れた。
チャンさん夫妻が情報を基に児童養護施設へ行くと、ビーさんはフランスへ渡る準備中であると知らされた。始めは何としてでも娘を連れて帰りたいと考えていた夫妻だったが、連れて帰って十分な治療を受けさせることができず亡くなってしまうより、フランスで生きて欲しいと願うようになった。ビーさんとは2、3度連絡が取れたたものの、その後は音信不通となり、良い家族に育てられていることを信じるしかなかった。
2010年に姪が大学受験でホーチミン市へ行くのを機に、チャンさんは息子2人を連れて同市へ遊びに行った。試験会場の前を行き交うバイクを眺めながら、前回ホーチミン市へ来た時には娘に会えたけれど、今回は市内のどこへ行ったってもう会うことはできない…とぼんやり考えながら、チャンさんは、通りの向こう側を走るバイクの後部座席に座る外国人の女性を目で追った。運転手と外国人の女性の間にキャンバス地の靴を履いた小さな女の子が座っているのが見えた。
チャンさんがバイクの波をかき分け女の子が乗っているバイクに向かって一歩ずつ近づいて行くと、交通警察が笛を鳴らした。女の子は笛の音に驚き、チャンさんの方を振り向いた。それがビーさんだったのだ。「自分の娘の顔を忘れるはずがありません」とチャンさん。
このチャンスを逃しては一生会えないかもしれないと、チャンさんはクラクションを鳴らし通りを走るバイクや制止する交通警察も振り切り駆けた。やっとの思いでバイクに追いつくと、必死に女の子の脚を掴んだ。「ビー!ビー!私よ、お母さんよ!」
「ホーチミン市に数百万といる人の中でも、神様は母娘を引き裂くことはしませんでした」と、チャンさんは8年前の愛娘との奇跡の再会を振り返る。これが、ベトナム人の母とフランス人の母の初対面でもあった。
それ以降、アニエスさん夫妻は2年に一度ビーさんをベトナムの両親と兄弟の元で1週間過ごさせている。ビーさんを残して先に帰るアニエスさんは、万が一のために必ずビーさんのファイリングされた分厚いカルテを置いていく。
2015年、ベトナムからフランスに帰った2か月後にビーさんの元に生みの父の訃報が届いた。今年ベトナムの故郷を訪れたビーさんがまず初めにしたことは、2人の母とともに行く父のお墓参りだ。ビーさんは亡き父をこう懐かしむ。「私は父と気が合ったんですよ。お互い無口なところが似ていて」。
[VnExpress 00:00 22/8/2018, T]
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