[特集]
チュオンサ諸島海戦で戦死した父の後を継いで、海軍入隊を志願した女性
2018/03/18 05:46 JST更新
(C) Mai Thanh Hai, Thanh Nien |
(C) Mai Thanh Hai, Thanh Nien |
ベトナム海軍の第4地域海軍司令部第146旅団で中尉として任務に就くチャン・ティ・トゥイさんは、1988年3月14日にチュオンサ諸島(英名:スプラトリー諸島、中国名:南沙諸島)のガックマー岩礁(英名:ジョンソン・サウス礁、中国名:赤瓜礁)でベトナムと中国の両海軍が繰り広げた海戦で戦死したチャン・バン・フオンさんの1人娘だ。
同海戦では、ベトナム軍が敗北し、フオンさんを含めた64人が戦死した。64人中、3人は遺体で発見されたものの、61人は遺体すら見つかっていない。
日焼けした肌に中部地方の訛りで「私が生まれた時には父は戦死していました。島へ発つ前に許された最後の一時帰宅で母が私を身ごもったことを知らないまま…」とトゥイさんは亡き父について語る。
周りの友人は両親が揃っているのになぜ自分にはお父さんがいないのか、幼心に疑問に感じていたトゥイさんは、「お父さんはどこ?」と言っては母を困らせた。訊く度に母は「お父さんは遠い島でお仕事をしていて忙しいのよ」とトゥイさんに言い聞かせたという。
トゥイさんが4歳になった1992年、大人たちが父の遺骨をシントン島から村の墓地に持ち帰り、母は涙ながらに「お父さんがやっと帰ってきたのよ」と言ったが、トゥイさんにはその意味が分からなかった。
しかし、小学校に上がる頃には毎月旧暦の1日や旧暦の大晦日などに祖母と母が連れ立って戦死者墓地へお参りする姿を見て、祭壇に飾られたモノクロ写真に写っている軍服を着た男性が自分の父で、祖国のために戦い亡くなったことを理解した。
トゥイさんの父フオンさんは、1965年に北中部地方クアンビン省の旧クアンチャック郡クアンフック村ドンサー集落(現同省バードン町クアンフック街区)で生まれた。中学校を終えると海軍に入隊し、砲兵偵察隊の教育課程に選抜された。卒業後、1984年1月に第4地域海軍第146旅団第862小隊の砲兵コマンド部隊の隊長の任を受けた。
当時は中学校を卒業した人は稀だったこともあり、フオンさんは再び選抜され第7軍区軍事学校で学ぶことになり、その後1986年1月に部隊へ戻り、第146旅団の隊長というポジションを維持したまま中尉に昇進した。
1988年3月11日、海軍の指令のもと、第146旅団は海上地図測量部隊や技術部隊など兵士100人近くが輸送船で南中部沿岸地方カインホア省カムラン港からチュオンサ諸島へ向かった。この時、フオンさんはガックマー岩礁副司令官としてこの任務に就いていた。
1988年3月14日午前3時頃、技術部隊は建設資材をガックマー岩礁の海岸に運搬し始め、第146旅団はフオンさんの指揮のもと、国旗を掲揚し技術部隊の任務を警備した。同日6時、中国海軍が艦船2隻と兵士40人ほどを乗せたアルミ製の船で同岩礁へ上陸してベトナムの国旗を奪おうとしたが、フオンさんがそれを阻止し、中国海軍の銃撃を受けた。
中国海軍はベトナム海軍の艦船や兵士に銃撃を繰り返し、ベトナム海軍の輸送船は撃沈、銃撃されたベトナム兵らは次々に海へ沈んでいった。
フオンさんの妻マイ・ティ・ホアさんは現在ホーチミン市で商いをしている。フオンさんとは幼馴染みで、4年間の交際を経て1987年6月に結婚式を挙げた。しかし、1年も経たないうちにフオンさんにチュオンサ諸島での任務が発令された。
任務に発つ直前の1988年のテト(旧正月)、フオンさんは10日間の休暇を取得し、休暇が終わるとホアさんは自転車でカムラン港までフオンさんを見送りに行った。
「港に着くと、彼は私に手紙を渡しました。そこには体に気を付けるように、そして軍事機密のためしばらく手紙の返事は書けないと書かれていました」とホアさんは夫と過ごした最後の日を思い起こす。
1988年3月14日午後、ガックマー沖で行方不明になっている兵士の名前がラジオで読み上げられた。その中に、フオンさんの名前もあった。ホアさんは信じることができず、夫の無事を祈ったが、数日後に戦死しシントン島で埋葬されたとする公報が手元に届いた。翌1989年には、フオンさんに武装部隊の英雄の称号が授与された。
母と祖母の手で育てられたトゥイさんは勉学に励み、2006年にクアンビン省のクアンビン大学に合格し、ベトナム学を専攻した。2009年に卒業すると、「武装部隊の英雄の1人娘」であることから、カインホア省人民委員会主席よりチュオンサ郡人民委員会での事務の職を与えられた。
2010年3月にトゥイさんは同省人民委員会と海軍が主催する親類のチュオンサ諸島訪問に招かれた。ガックマー海域に着いたと知らせる船内放送を聞いたトゥイさんは甲板へ出て海に目をやった。携帯電話を手に取り「お父さんが命を捧げた場所に着いたよ。私にはお父さんが見えるよ、お母さん」とトゥイさんは沖で待つ母に涙声で伝えた。
チュオンサ諸島訪問から帰った当日の夕方、トゥイさんは父と同じ道を歩みたいと海軍への入隊志願書を書いた。そして、2010年半ばにトゥイさんはかつて父が従事していた第146旅団で勤務することになったのだ。
トゥイさんの夫グエン・ホー・ハイさんは、農業農村開発省漁業部門の漁業管理職員として毎日巡視船に乗って南中部沿岸地方ビントゥアン省フークイ沖からチュオンサ諸島の海域を巡視している。ハイさんの父も海軍中佐であり、トゥイさんハイさん夫妻はカムラン地域で「海を守る一族」として知られている。夫妻には娘が2人おり、長女の名前は海軍に因んで「ネイビー(Navy)」というそうだ。
※動画
「南沙諸島での中国海軍によるベトナム人虐殺の事実」
(1988年3月14日にチュオンサ諸島へ侵入する間、中国海軍によって撮影された映像)
2分5秒~:
1988年3月初旬、中国海軍がチュオンサ諸島の5つの岩礁と環礁を占領しようとし、ベトナム海軍は急遽、物資と機材を3つの岩礁と環礁に運んだ。1988年3月13日、ベトナム輸送船が岩礁に到着するも、中国武装戦艦がこれに対し警告。
4分12秒~:
1988年3月14日、中国海軍がベトナム兵を挑発、ベトナムが物資と機材を運んだ岩礁に着陸した。
5分44秒~:
ベトナム海軍と工兵は半身が海水に浸かったまま、生身の人間の輪で岩礁を取り囲んでこれを防衛。しかし、中国海軍は非武装のベトナム海軍と工兵に37mm対空砲で発砲し、銃撃を受けたベトナム海軍と工兵は次々と海の中に沈んでいった。
6分14秒~:
中国海軍がベトナム輸送船に100mm砲で発砲、ベトナム輸送船は撃沈。
7分25秒~:
2008年の式典の様子
[Mai Thanh Hai, Thanh Nien, 06:17 - 13/03/2018, T]
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