[特集]
配給時代の悲喜こもごも
2017/09/10 05:01 JST更新
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ハノイ市の食糧事情が厳しかった時代、人々は配給の物品を扱う店に列をなした。食料を得るために国中が奔走していたあの頃、緑米があちこちに植えられているのをよく目にしたものだ。
配給時代を思い返すと、多くの世代のベトナム人が皆つらい体験をしている。30年が経ち、思い出したくもないという人もいれば、困難を乗り超えていくため常に子供たちに話して聞かせているという人もいる。
1980年代、国家公務員や幹部、労働者のいずれも、職業ごとにそれぞれの制度に従って発行される配給切符で食材や食品を得ていた。配給切符は、高級幹部が「特A票」、大臣レベルが「A票」、次官レベルが「B票」、各局・部門・研究所のトップが「C票」などに分かれていた。
「当時の内商省は配給切符を次々とよく考えたもんだと思いますよ。やれ生地切符、砂糖切符、油切符、薪切符とね」。ハノイ市ハイバーチュン区に住むチュー・クアン・ニャンさんは振り返る。
ニャンさんのように配給時代に少年だった世代は、学校へ行くこと以外に、名前を書いたレンガを置いて配給の列の中で場所取りをし、米や野菜、肉、魚などを買うという任務があった。
配給切符は家族の生活の支えとなるため、万が一盗まれたりすれば1か月間にわたり家族が飢えることになる。毎回配給から戻ると、ニャンさんの母親は受け取ったものを何重にもしたビニール袋に入れて棚や鍵のかかる箱の中に注意深くしまっていたという。
ニャンさんは、自分たち70年代世代の当時を揶揄して「水汲み世代」と呼ぶ。10歳を超えると、放課後には家に帰って錫のバケツを持ち、公共の水汲み場に水を汲みに行った。
「当時、水汲みの列に並ぶのは『芸術』のようでしたよ。口で友達とおしゃべりして笑いながら、足でバケツを蹴って列の前に入り込み、少しでも早くもらえるよう必死だったんです」。
水を求める行列は、時に早朝から深夜まで続いた。公共の水汲み場は米を研ぐ人、野菜を洗う人、水を浴びる人などで賑わっていた。
同じくホアンキエム区に住むグエン・スアン・タインさんは、「配給」と聞くと、水浴びやトイレも列に並ばなければならなかったため1日中列に並んでいたシーンを思い出すという。
タインさんは8人家族で、9.6m2の家にひしめき合って暮らしていた。路地にある12世帯で1つの台所を共有していたため、煮炊きの時間帯になると台所は市場のように賑やかだった。
公衆トイレは100人に対して3か所だった。朝早くから皆新聞を手に長い列を作った。長く待ちすぎて我慢できなくなり、家に駆け込んで間もなく平然と仕事に行く人もいたが、どうやって解決したのかはわからない。
給料が安くて生活できなかったため、公務員や教員までもが騒がしい街中で豚や鶏を飼った。どの家もどの人も、集合住宅に住む人までも豚を飼った。「豚様」は浴室やトイレなどで大切に世話をされ、病気にでもなろうものなら配偶者や子供よりも心配してもらえた。
また当時、プジョー(Peugeot)やフェイバリット(Favorite)、スーパーカブ(Supercub)、バベッタ(Babetta)などの二輪車は「スーパーカー」と見なされていた。
購入したら登録に行き、警察から所有証明書とナンバープレートを発行してもらわなければならなかったが、「スーパーカー」に乗ってさえいれば、男性は必ず女性を口説き落とせた。更に、持っている車が男性のランクを決めた。
多くの人にとって、配給時代というのは忘れ去りたい記憶である一方、思い出すに値する記憶でもある。
「誰もが困難な時代だったので、自分の苦境も特別なことではありませんでした。一番思い出すのは、当時の人々の清い精神と、貧富の差があまりなかったことです」と教育者のバン・ニュー・クオン助教授は振り返った。
[2017年9月9日 ベトジョーニュース A]
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