[特集]
阮朝皇帝の子孫は今―サイゴンで貧困に暮らすタインタイ帝の孫
2016/03/27 06:00 JST更新
(C) vnexpress, Duy Tran, タイさん |
(C) vnexpress, タイさんと妻、娘 |
(C) vnexpress, ビン・ジウ皇子(左)と故キエット元首相(右) |
(C) vnexpress, Dac Duc |
脳性まひの娘を持ち、ホーチミン市の12m2の賃貸アパートに住んでいる男性がいる。この男性は、阮(グエン)朝(1802~1945年)の皇族の子孫だ。建設労働からバイクタクシーの仕事までこなし、生活のために走り回っている。
簡素な作業服を着た50歳過ぎの男性が、日焼けした肌に大汗を流しながら家に帰ってきた。物思いにふけながら、テト(旧正月)で建築工事が少ない中、作業員の仕事をあちこち探し回っているところなのだと教えてくれた。彼こそが、阮朝第10代皇帝タインタイ(Thanh Thai=成泰)帝(在位1889~1907年)の孫、グエン・フオック・バオ・タイ(Nguyen Phuoc Bao Tai)さんだ。
タイさんは1964年にメコンデルタ地方カントー市で生まれた。タイさんの父、ビン・ジウ(Vinh Giu)皇子はタインタイ帝の7番目の子供で、阮朝第11代皇帝ズイタン(Duy Tan=維新)帝(在位1907~1916年)の弟にあたる。タイさんのミドルネーム「バオ(Bao)」は、皇帝の孫と皇帝になる可能性のある人物にしか付けることができない。
ビン・ジウ皇子がカントー市に流れ着き、タイさんが誕生したという話の始まりは、フランス植民地支配下の19世紀末頃にさかのぼる。阮朝第8代皇帝ハムギー(Ham Nghi=咸宜)帝(在位1884~1885年)は、反仏運動を進めたことでフランスに捕らえられた。
これにより、タインタイ帝は1889年までフランス政権の保護下に置かれていた。愛国心の強かったタインタイ帝は、フランスに対する抵抗心を抱いていたものの、即位後もこれを隠していた。しかし、反仏派ということが露見し、フランス当局の圧力で退位させられた後、1907年に現在の東南部地方バリア・ブンタウ省ブンタウ市にあたるサンジャックの地へ流刑に処された。1916年、ズイタン帝の廃位に伴い、親子でインド洋のレユニオン島へ流刑となった。レユニオン島でタインタイ帝は9人の子供と過ごした。
31年間の流刑の後、1947年にタインタイ帝とその家族はベトナムへの帰国を許された。タインタイ帝は再びブンタウ市に住むことになったが、皇子たちは各地に分散させられた。ビン・ジウ皇子はフランス人によりカントー市へ連れて行かれ、橋や道路の土木工事に従事させられた。ビン・ジウ皇子は1951年にリー・ゴック・ホア(Ly Ngoc Hoa)さんと結婚し、7人の子供に恵まれた。タイさんは一番下の子供だ。
「私の父は体が弱かったので、しばらく土木工事に従事した後に仕事を辞めて、音楽の演奏や自転車修理など様々な仕事で生計を立てていました。父母は私たち兄弟が成長するまでとても苦労しました。私自身も小さい頃は宝くじを売って家族を助けていました」とタイさんは語る。
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どれだけ働いても生活は貧しかったが、ビン・ジエウ皇子は皇族らしく品の良い生活スタイルを維持していた。全ては過去の話に過ぎないのだが、それでも皇子としての風格を保っていた。「流刑地では西洋の作法で食事をしていたので、父はカントー市に戻ってもナイフとフォークを使っていました。父はミルクに浸したフランスパンとフライドポテトが好物で、短パンと運動靴を身に着けていました」。
2005年、故ボー・バン・キエット(Vo Van Kiet)元首相はタインタイ帝の孫がカントー市に住んでいると知り、同市を訪問した。「故キエット元首相は、もとは皇族だった私たち家族の現在の苦しい生活を見て、何か助けることができないかと聞いてくれました。私の父は、『見ての通り、泥棒も恐れ入って入ろうしないくらい家の中には何もありません』と答えていました」。
故キエット元首相はその後も何度もタイさん一家を訪問し、市に対してビン・ジウ皇子に家を寄贈することを提案した。故キエット元首相はまた、他の皇子たちの仕事も支援した。タイさんには、バイクタクシーの仕事をするためのバイクが贈られた。
「カントー市に50年間住んでいましたが、近所の人たちは誰も私たちがかつての皇帝の子孫だということを知らなかったので、故キエット元首相が訪れた時、皆大変驚いていました。多くの人は、皇帝の子孫にもかかわらずなぜこんなに苦しい生活をしているのだと舌打ちしながら言っていました」。タイさんは、遠くを見つめながら回想した。
故キエット元首相の訪問から2年後の2007年、ビン・ジウ皇子は逝去し、遺骨は北中部地方トゥアティエン・フエ省フエ市のズックドゥック(Duc Duc)廟(アンラン=An Lang=安陵)に埋葬された。グエン・フオック家のタインタイ王朝の系譜には、ビン・ジウ皇子はタインタイ帝とチー・ラック(Chi Lac)妃の子であることが明記されている。
タイさんは、バイクタクシーの仕事は収入が少なかったため、2004年に40歳を迎えてからようやく結婚することができたと教えてくれた。2年後に女の子が生まれ、グエン・フオック・タイン・トゥエン(Nguyen Phuoc Thanh Tuyen)と名付けた。
「これは皇族の名前ですが、彼女の運命は祖父や父のように苦しいものになるでしょう。トゥエンは脳性まひを患っていて、寝たきりで話すこともできず、1人で飲んだり食べたりすることもできません。私たち夫婦は治療のためにあちこちへ彼女を連れて行きましたが、無力でした。それにお金もありませんでした」。
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縁があって、タイさん夫婦は一人娘を連れてホーチミン市に出てきて、もうすぐ1年になる。娘の治療のために各地を走り回った後、ビンタン区のある医者が無料で定期的に鍼灸治療をしてくれることになった。この治療のおかげで娘の意識が覚めて動けるようになったことから、治療のためにこの近くに家を借りて住むことに決めた。
初めの頃、彼らは1階の部屋を借りていたが、2か月後には屋上に移り、より広い12m2の部屋を安い賃料で借りることができた。辛いのは、子供を背負って階段を上り下りする時だ。
タイさんはホーチミン市で仕事がなかったため、あちこちに出向いて建設労働の仕事を探している。仕事があれば、1日に約20万VND(約1020円)を稼ぐが、雇い主がいない日には収入もない。「とても心配です。今は私も妻も元気で子供を治療に連れて行くことができます。でも年老いてからはどうなるかわかりません。故郷にあった少しばかりの蓄えはもうなくなってしまいました」。
タイさんは、「先祖の輝かしい過去は誇らしいことです。しかし今は将来を見て、貧しくてもきちんと生きて、先祖や自分の家系を裏切ることのないようにしたいです。貧しくても、自分の子供と一緒に生きるというのは有意義なことです」と語った。
貧しさから抜け出せないタイさんは、父が死去してからの10年間、フエ市にある父の墓に一度も行けていなかった。しかし、2016年3月24日、阮朝第5代皇帝ズックドゥック(Duc Duc=育徳)帝(在位1883年)と第10代皇帝タインタイ帝、第11代皇帝ズイタン帝の3人の命日に合わせて、一家はようやくフエ市を訪れることができた。
皇帝3人の命日は異なるが、遠方から訪れる子孫も多いため、毎年1日にまとめて儀式を行っている。渡航費は、フエ遺跡保存センターが支援した。同センターは、タイさん一家の暮らしを知って支援を決めたという。同センターはタイさん一家の生活費の一部も援助する。
「父の墓をこの手できれいにすることができて、線香を手向けることができて本当に幸せです」。初めてグエン・フオック家の先祖と父の墓に手を合わせることができたタイさんは、あふれる涙をこらえることができなかった。
[Duy Tran, VNExpress, 6/3/2016 | 00:00 GMT+7, A]
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