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[特集]

「ベトちゃんドクちゃん」分離手術の知られざる裏側【後編】

2016/02/21 05:32 JST更新

 ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤の影響で結合双生児として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」。2人の分離手術は、当時ホーチミン市の医学界で「腕利きのキャプテン」と言われていた故ズオン・クアン・チュン医師の巧みな指揮と日本赤十字社の医師の立ち会いの下、1988年10月4日にホーチミン市ツーズー産婦人科病院で予定通り行われた。

前編 → 「ベトちゃんドクちゃん」分離手術の知られざる裏側【前編】

世界中が注目した分離手術での緊急事態

 大手術は世界中のメディアの注目を集め、多くのテレビ局が生中継を行った。しかし、想定外の事態が起きた。弟グエン・ドゥック(Nguyen Duc)さん(以下ドクさん)へ麻酔薬を投与している最中に兄グエン・ベト(Nguyen Viet)さんがけいれん発作を起こし、脈拍数が1分間に200回近くまで上がったのだ。

 心血管と麻酔のチームはこの緊急事態を案じたが、緊急手術に対して万全の準備を整えていた手術スタッフたちはドクさんを一刻も早く救うことに集中した。2人に通じている全ての血管を早急に切り離さなければならず、そうしなければ2人とも手術台の上で死亡してしまう恐れがあった。

 当時のホーチミン市第2小児病院外科部長で、この手術の外科チーム長を任されたチャン・ドン・アー医師は、「私は、ベトさんの生体情報モニタを見つめていました。ベトさんの心拍数が下がる兆候があれば、急いで手術を進める必要があったからです。予想外だったのは、トゥーさん(故ズオン・クアン・チュン医師のこと)がずっと私の隣に立っていたことです」と回想した。

 「ベトさんが緊急事態を脱したことを心血管と麻酔チームが教えてくれるまで、私たちはずっと隣で寄り添って立っていました。それからようやく私は手術室を出てもう1度手を洗い、着替えて、バン・タン医師、チャン・タイン・チャイ医師らと手術室に入りました。その1時間30分という時間は、私にとって何世紀も経ったかのように長く感じました…」。

次ページ → 15時間に及んだ大手術




 ドン・アー医師は、2人をつないでいる肛門と生殖器をベトさん側に約2.5cm多く残して全て分離した。その後、レ・キン医師、ボー・バン・タイン医師、ブー・タム・ティン医師らが骨を削った。

 骨はとても硬く、ほんの少しでも削り方を間違えれば、ドクさんが今後「大人になる可能性」がなくなってしまう恐れがあった。そのためドン・アー医師は、分離後の各器官の構造を守るため、削るべき正しい位置を自らの指先で指し示した。削る位置を誤れば、ドン・アー医師の指も削られてしまうような状態だった。

 2人が共有している肛門について、大腸は完全にベトさんの血管系統によって動いていた。ドクさんは、大腸の入り口の部分と肛門に接した直腸の出口の部分をベトさんと共有しているだけだった。ドクさんに肛門を分けるとすれば、ドクさんとベトさんの2人の血管によって動いている大腸の入り口と直腸の出口を残すしかない。

 この2つの部分は離れた位置にあり、両方をつなぐには、今後ドクさんが自分で用を足せるようになることを保証する必要があった。手術チーム長は、ドクさんの腸を十二指腸から回転させ、胎児の時のような原始的な形にする案を打ち出した。大腸の入り口の部分は、右骨盤腔の代わりに左骨盤腔へ配置した。

 これは、肛門を閉じる目的の他に、腹膜がないドクさんに腹部の下境界を作るという役割も果たしていた。そうしなければ、ドクさんの腸は腹部とくっつき、腸閉塞を起こす恐れがあった。その後、この計画は完全に正しかったことが証明され、フランスの新聞では「優秀な正確さ」と報じられた。

 緊張状態の中、手術は15時間に及び、ドクさんの腹部を縫合し終えた時にはすでに真夜中になっていた。多くの医師たちは長時間に及ぶ手術で疲れ切っていたにもかかわらず、経過を見守るため手術室に留まっていた。

次ページ → 手術の成功と2人の人生




 手術チーム長は、スタッフに経過観察の方法について指示したのち、汗でじっとりと湿った手術着とともに手術室を後にした。彼が手術室を出ると、思いがけず故ズオン・クアン・チュン医師をはじめ手術に参加した医師たちがまだ経過観察室に座っていた。そこには当時のホーチミン市最高指導部だったボー・チャン・チー氏もおり、握手をし、手術が成功したお祝いの花籠を贈ったという。

 「それは去る1988年10月5日のこと。決して忘れることのない日です」とドン・アー医師は語った。

期待以上の成功とその後の2人の人生

 生死をかけた手術を終え、世界中が見守る中で、2人は目を見張るほどの速さで回復した。ベトさんは植物状態だったが、ツーズー産婦人科病院の平和村(Lang Hoa Binh)の支援を受けながら、手術後の19年間を生き抜いた。ベトさんは2007年10月6日、同病院で息を引き取った。26歳だった。

 一方、ドクさんは成長し、平和村のスタッフとなり、2006年12月に結婚。2009年には可愛い男女の双子が誕生した。それは、世界中の医学界でも前例のないことだった。ドクさんの結婚式を主催したのは、彼の人生に命を与えた「おじいちゃん」「おばあちゃん」こと、手術に参加した医師たちだった。ドクさんの双子の名前は、男の子が「フー・シー(Phu Si=富士)」、女の子が「アイン・ダオ(Anh Dao=桜)」だ。

 伝説の手術はベトナム医学界のマイルストーンとなり、1991年には世界ギネスに認定された。手術に参加した医師らは自信を持って世界へ歩み出した。止まることのない多くの変化を経て28年が過ぎた。あの日手術に参加した医師らは、既に亡くなってしまった人もいるが、人の命を救うため、定年後も休むことなく医師を続けている人もいる。 

[Le Phuong, VNExpress, 21/1/2016 | 12:03 GMT+7, A]
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