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[特集]

元ストリートチルドレンの女性、豪州で優秀留学生として表彰

2014/04/06 08:07 JST更新

(C)  dautu, ダン・ティ・フオンさん(中央)
(C) dautu, ダン・ティ・フオンさん(中央)
 幼くして親元を離れて奉公に出て、階段の下で7年暮らし、一時は橋に下でストリートチルドレンの生活を送っていた女性が昨年、オーストラリアで優秀な留学生として表彰された。  紅河デルタ地方ビンフック省ラップタック郡ドンイック村にある実家では、久しぶりに帰省した娘を取り囲んで笑いが絶えない日々が続いていた。28歳になる娘ダン・ティ・フオンさんが2年間のオーストラリア留学の後、数々の賞状を持って帰ってきたのだ。  フオンさんは昨年、豪ヴィクトリア州で優秀な留学生を称える賞を2つ受賞した。2賞を同時に受賞したベトナム人は彼女が初めてだという。さらに彼女は、ボックスヒル学院の「2013年国際学生大使」にも選ばれた。オーストラリアで華々しい成功を収めた彼女だが、そこに至るまでに幾多の苦難を乗り越えてきたのだ。  彼女は妾の子だった。愛人をしていた母親は今にも崩れ落ちそうな家に住み、雨の日には家族で身を寄せ合って眠った。母と兄と妹の4人家族で、彼女も働き手の一人だった。教師になりたいという夢を抱きながら、家庭の事情で、中学校を休学して奉公に出ざるを得なくなり、13歳のとき単身ハノイで働き始める。当時身長130センチ、体重27キロの小柄な少女だった彼女は不安で胸がいっぱいの中、故郷を後にした。

 ハノイに来て最初の仕事は、赤ん坊の子守と家事手伝いだった。住み込みで朝から晩まで働いて給料は15万ドン足らず、その上気むずかしい主人に怒られっぱなし。「お金持ちの人との暮らしは緊張の連続でした。私はいつも何とかして彼らを満足させようとしましたが、いつクビになるかと不安な日々を過ごしました」彼女はそう打ち明けた。  涙にくれた夜がどれほどあったかしれないが、彼女は決して家族を責めなかった。彼女にとって母親や兄妹と一つ屋根の下で暮らした記憶は最大の幸せだった。どんなに苦しくても、母の助けになり、兄妹が学校に通えるように、と歯を食いしばり頑張って仕送りを続けた。最初の給料をもらった時、彼女は一家の全財産を預かっているかのように感じたという。  4年間働いた後、彼女は幸運にも知人のツテで教育センターに通えることになった。再び学校に通うという夢が叶ったときは本当に嬉しかったという。しかし、その2か月後には、そんな喜びが吹き飛んでしまいそうな窮地に立たされた。仕事先の家の主人が、夜遅くまで起きて勉強している彼女のことを快く思わず、家から追い出されてしまったのだ。その後、頼れる人もいない彼女は、橋の下の公園で暮らし始めた。日が昇っているうちは物売りをしてお金を稼ぎ、日が沈んでからは補習校に通う。そんな生活が2年も続いた。  「この時は今までの人生で最悪の時期でした。橋のたもとは薬物中毒者や泥棒がのさばる無法地帯。縄張り争いなども日常茶飯事で、我ながらよく2年間もあの生活に耐えられたものだと思います」彼女は当時を振り返りそう語った。

 転機が訪れたのは2006年初めのことだ。彼女はストリートチルドレンを支援する専門学校の学生になる。そこで飲食店やホテル業について学んだ彼女は、コース履修後、ハノイにある大きなホテルに就職した。そこでも必死に働き、周囲の信頼を得て、より高いポジションと給料を得るようになった頃、彼女は突然辞職する。それは奨学金を得てオーストラリアへの留学するためだった。  彼女が職場を離れてしまってからも、元同僚たちは彼女のことを褒め称える。元同僚らは、「彼女が留学のために辞職したときは非常に残念でした。彼女は当時から英語がうまく、接客も素晴らしかったのです」と口々に言った。  元上司の男性は、彼女が留学先でたくさんの賞を受賞したことを聞くと、「彼女は自分の能力に相応しい栄誉を受けたに過ぎません。彼女ほど、努力をしてきた人間はいないのですから」と語った。 

[Quynh Trang Dautu  07:43 | 20/02/2014 U]
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