[特集]
ベトナムを耕す日本人青年、「自国民の手で安全な野菜を」
2013/12/15 08:13 JST更新
(C) Vnexpress, 塩川実さん |
(C) Vnexpress, 塩川さんの栽培した有機野菜 |
ベトナムにしっかりと根を下ろし、農業に従事している男性がいる。1983年生まれの塩川実さんは大学在学中、発展途上にある国々の人口増加や食糧不足、水不足などの問題について討議する機会があった。その時から環境問題に関心を持ち始め、実際に自分の目で確かめようと、アルバイトで金を貯め、中国、台湾、カンボジア、ベトナムの4か国を回った。
ベトナムに到着した彼は、地域ごとの生活レベルや貧富の格差の大きさに愕然とする。ホーチミン市内でさえ、サイゴン川の向こうとこちらでは別世界だった。それと同時に、ベトナムと日本の似通った部分も感じ取った。国土面積が同じぐらいで、長い海岸線を持ち、南北に長い国。日本とよく似た地名もあった。
「統一鉄道に乗った時、私はベトナム語がわからず、他の乗客は日本語を知らなかったけれど、周囲の人たちととても楽しく交流できました。皆いつも笑顔なのが印象的でした」と、彼は流暢なベトナム語で語った。
日本に戻った後、ある農業会社の社長からベトナムでの有機農業プロジェクトのボランティアに誘われた。塩川さんは再びベトナムに渡ると、日本に渡航する実習生の選抜や日本語教育を行うことになった。仕事と大学卒業のために日本とベトナムを行き来する日々だったという。
プロジェクトに携わって5年が過ぎた頃、彼は一緒に経験を積み、農業の厳しさを分かち合ってきたベトナム人農家たちと、南中部高原地方ダクラク省で起業することになる。2010年7月、1000平方メートルの土地を借り、自ら畑を耕して有機野菜の試験栽培を開始した。
初めは生産量も少なく、自給自足がやっとだった。また、当時の有機野菜の価格は普通の野菜の2~4倍もしたため、市場に出すのは難しかった。だが、調べていくうちに、ホーチミン市に住む日本人コミュニティの中で有機野菜への需要が高まっていることを知る。市場に安全性が疑問視される中国野菜が溢れていたからだった。また同じ頃、彼のもとに有機農業をやりたいという日本から帰国した実習生たちが集まっていた。
2011年、農薬や化学肥料を使用せず、厳しい環境保護基準をクリアした新鮮な「ニコニコ野菜」の販売を開始、ダクラク省バンメトート市からホーチミン市に向けて出荷した。彼は各家庭から個別に予約を受け、配送業者が日本語がわからないため、自ら配達して回った。
有機農業は、気候の変化や病虫害など様々な要素に左右される大変な仕事だ。最初はほとんど利益がでず、丸1年は赤字が続いたという。だが、有機農業に賭ける塩川さんの決心が揺らぐことはなかった。
彼の野菜は次第に日本人コミュニティの間で知られるようになり、良い反応も増えてきた。それをきっかけに幾つかの小さなスーパーとの取引が始まり、多少の利益がでるようになったが、同時に生産量や品質に対する要求も厳しくなっていった。2011年の年末、顧客が大きく増えるのと引き換えに、彼は病に倒れ、1年間の治療を余儀なくされてしまった。だが、彼は夢のために今度は病気と闘い、これを克服した。
大学時代の同級生たちが日本でマイホームやマイカーを持ち、安定した生活を手にしている頃、30歳になった彼はまだベトナムの畑を相手に奮闘していた。また、自ら生産するだけでなく、有機農業に携わる人達のネットワークを広げていった。現在畑は5000平方メートルにまで拡大し、毎日100キロもの野菜をベトナムの消費者の元へ届けている。
ベトナムで8回の年越しを経験した塩川さんは、「よく笑い、自然と共に暮らし、環境を守り、人々の健康をケアするという理想を実現できたことに大きな幸せを感じています」と、よく日焼けした笑顔で言った。彼は、より多くのベトナム人がベトナム人自身の健康を守るために、安全な野菜を作るようになることを心から願っている。
[vnexpress, 13/11/2013 05:12 GMT+7 S]
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