[特集]
西洋人で初めてベトナム国籍を取得した「青い目のベトコン」
2013/04/21 08:10 JST更新
(C)Vnexpress, 「ホー・クオン・クイエット」ことアンドレ・マルセル・メンラス氏 |
2009年に西洋人で初めてベトナム国籍を取得した人物がいる。ベトナム戦争中、ベトナム革命を支援した罪でチーホア刑務所(ホーチミン市)に投獄された時、刑務所仲間たちから「ホー・クオン・クイエット」と呼ばれていた、フランス人のアンドレ・マルセル・メンラス氏だ。
南仏の貧しい農家に生まれたメンランス氏は、1967年にモンテペリエ師範大学を卒業した後、フランス政府とベトナム共和国(南ベトナム)政府の共同プロジェクトでベトナムに渡る。ダナン市のブレーズ・パスカル校で教鞭をとり、2年後にはサイゴンのレクイドン校に転任となった。
平和な国から来た彼は、米国の銃弾に倒れる人々の姿を目の当たりにして心を痛めた。「1人の人間として、1人の教師として、この現実に耐えられませんでした。この国のために何かしなくてはならないと強く感じたのです」と彼は当時の心情を語る。
1970年7月、彼は友人のジャン・ピエール・デブリス氏と共に、ベトナム共和国下院議員の国会議事堂(現在の市民劇場)の前で、平和を願う気持ちを込めて人民解放戦線の旗を掲げた。だが、メンラス氏たちは逮捕され、チーホア刑務所に2年半拘留されることになる。
刑務所の中でも彼は、他の同志たちと共に自らの信念を貫き続け、ベトナム共和国の旗に敬礼せず、解放の歌しか歌わなかった。「この経験が私の政治理念を育ててくれました。仲間たちは外部の状況を報告してくれており、1969年9月2日にホーチミン主席が亡くなった時は、弾圧を受けながらも刑務所の中で主席を偲ぶ葬儀を決行しました」。
彼には思い出すと今でも涙が溢れる出来事がある。刑務所仲間たちがメンラス氏とデプリス氏にベトナム名を付けてくれた時のことだ。同志たちはメンラス氏を「ホー・クオン・クイエット」、デプリス氏を「ホー・タット・タン」と呼んだ。「ホー」はホーチミン主席の姓であり、名前にはいずれも「必勝」の意味がある。初めはホー主席の苗字など恐れ多いと思ったが、いつかベトナム国籍を取ることができたらこの名を名乗ろうと心に誓った。
1973年1月1日、パリ協定締結のおよそ1か月前に彼は釈放され、国外追放となった。この時彼は秘密裏に入手したコンダオ島、フーコック島、チーホア刑務所、タンヒエップ刑務所に収監されている囚人リストを南ベトナム共和国臨時革命政府のファム・ティ・ミン女史に送った。当時ベトナム共和国政府とアメリカ軍が出していた「南ベトナムに政治犯はいない」という発表が誤りであることを明らかにし、糾弾するためだった。
帰国後、メンラス氏はデプリス氏と共に「私たちは告訴する―サイゴン監獄からの帰還」という本を出版、7か国語に翻訳され、数十万部発行された。これによりこれまでのベトナムへの貢献が認められ、2002年にメンラス氏はホーチミン市民として認められる。そして同年、彼は仏日師範交流発展友好協会を設立し、両国の交流促進に努めている。
またメランス氏は、ベトナムで撮影された「ベトコンの西洋人」(ベトコン=南ベトナム解放軍ゲリラ部隊)及び「アンドレ・メンラス、ある一人のベトナム人」という2つのドキュメンタリー作品にも出演している。さらに彼は「ベトナムのホアン・サー、喪失の痛み」というフィルムの脚本と監督を手がけ、2011年までに5か国語で上映された。
そして2009年、彼はグエン・ミン・チエット国家主席(当時)から西洋人として初めてベトナム国籍を授与された。チエット国家主席は「アンドレ氏は対米救国運動時代からの我々の友人だ。彼は積極的に闘争に貢献し、南部解放と国家統一に貢献した。平和が訪れた今も同志から尊敬され親しまれているアンドレ氏にベトナム国籍を授与することに決めた」と理由を語った。
アンドレ氏はベトナムを訪れる度にホーチミン主席の墓と、彼にベトナム名をつけた同志たちの墓に線香を供える。そして、彼らの魂と自分の心に「決して人に無関心にならない」と誓うのだという。
[Hoang Thuy, Vnexpress 12/2/2013, 07:00 GMT+7 S]
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