(C) vnexpress, Khanh Huong, ヘットさん |
ヘットさんによると、たくさん売れた日は帰って売り上げ分を親戚に分けていたという。「逆に大きくマイナスになったときは、親戚が赤字分を一緒に負担してくれていましたので、夫と子供を養うには多少の余裕がありました」とヘットさん。
その後、ヘットさんはトラックをもう1台購入し、運転手も雇った。トラックは、毎週月・水・金曜日はダラットから野菜と花をサイゴンへ運び、火・木・土曜日はサイゴンから米や果物、苗木、肥料などをダラットへ運んでいた。
1950年代になると、ダラットでは同地産の農産物をサイゴンへ運ぶための数十台のトラックが活動するようになった。サイゴンで野菜や花の需要が高まっていた時期だったこともあり、商品の流通が最も盛んで、いくら運んでも足りないほどだった。
「親戚たちが育てた野菜と花を鉄道に載せて、ハノイで売ることもありました。商品だけ先に運んでおいて、数日後に私が飛行機でハノイまで行って、市内の各市場に卸してからダラットに帰るんです。特にダラットの野菜や花は人気が高く、需要も多かったです。でも、あまりにも往来が大変だったので、10回ほどで辞めてしまいました」とヘットさんは語る。
商売も繁盛していた1957年、ヘットさんは自ら商品を運ぶことを辞めた。商品は乗り合いバスに載せることにし、徐々に商売も縮小していった。「多くの人からどうして商売を拡大しないのかと聞かれましたが、私はお金持ちになりたいといった夢があったわけでもなく、ただ家族の面倒を見ることだけを望んでいたんです」。
ハノイ市を出てダラットに移り、農産物の商売に明け暮れたヘットさんは今、90歳を目前にしている。同世代の人々の多くは、既に旅立ってしまった。ダラット産の野菜や花が現在のように1つのブランドとして認識されるための基盤を作ったのは、まさにヘットさんのような先駆者たちのおかげだと言えるだろう。