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南部抗戦の日~ベトナムの9月23日~

2016/09/23 JST配信

ベトナムの9月23日は 「南部抗戦の日」=「Ngày Nam Bộ kháng chiến(ガイナムボカンチエン)」です。 公園や通りの名前に「Ngày 23 tháng 9(9月23日)」を冠しているものが各地方にありますが、これはこの南部抗戦の中で大規模な人民の抗戦が起こった日を記念して付けられたもの。ベトナム人の不屈の精神を象徴する日とされています。

(C) NgBK

南部抗戦は、 1945年9月2日ベトナムが独立を宣言 してから僅か11日後の9月13日にフランスを支援する形でイギリスがベトナムへ進駐し、その後半年にわたって続いた、第一次インドシナ戦争の前哨戦ともいえる戦いです。この南部抗戦は、イギリス側では 「マスタードム作戦(Operation Masterdom)」 と呼ばれています。

このときベトナムの敵となったのは、再支配をもくろむフランスと、それを支持するイギリス及び英国領インド、そしてベトナムでイギリス軍に降伏した 日本軍 でした。

南部抗戦に至るまで

第二次世界大戦の終盤、1945年7月にポツダム会談が開かれ、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国首脳が日本降伏後の戦後処理を協議しました。その席で、ベトナムについては北緯16度線を境に北を中華民国が、南をイギリスが監督することで合意します。そして、 ベトナムの正当な支配権はフランスにあるという見解で一致。 しかし、フランスは大戦で疲弊していたため、フランスの再進駐を支援すべく、イギリス軍がインド軍を従えてベトナムへ進駐することになりました。

当初イギリスは8月28日までに進駐する予定だったそうですが、台風の影響で延期。その間の9月2日、ホー・チ・ミン主席がベトナムの独立を宣言します。

同日に横須賀沖のアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われると、9月13日に英印軍の先遣隊がサイゴン(現在のホーチミン市の中心部)に入ります。当時のサイゴンは、独立を主導したベトナム独立同盟会(ベトミン)の勢力が弱く、大戦終結後も残っていた日本軍の武装解除もまだ行われていなかったため、情勢は極めて不安定でした。そこで、英印軍は日本軍を降伏させ、捕虜となっていたフランス人兵士を解放して再武装させるとともに、ベトミン勢力の排除を実施していきます。

Wikipedia サイゴンにてイギリス軍に降伏する日本海軍将校

本格抗戦の開始

サイゴンの殆どを制圧した英仏軍は9月23日、一部残っていたベトミン勢力に対して攻撃し、サイゴン全域の支配を確保します。これを受けて一般市民であるベトナム人たちが暴動を起こします。これをきっかけにベトミンがサイゴン中央市場(現在の ベンタイン市場 )やタンソンニャット飛行場を攻撃。本格的な武力衝突に発展していきます。そんな中、 英仏側は残留していた日本軍を指揮するようになり、日本軍はイギリス軍と遅れて到着したフランス軍とともに、ベトミンの敵として戦うことになりました。

ベンタイン市場近くの公園(旧サイゴン駅跡地)が 「9月23日公園(Công Viên 23 Tháng 9)」 と名づけられたのは、ベンタイン市場前で大規模な抗戦が行われた南部抗戦を記念してのことです。

このとき、ハノイにいたホー・チ・ミン主席は、南部の国民に向けてあの有名な 「Thà chết tự do còn hơn sống nô lệ(奴隷として生きるより自由に死ぬことを選ぶ)」 という言葉を記した書簡を送り、徹底抗戦を呼びかけます。そのため、この南部抗戦はベトナムの不屈の精神の原点と位置づけられ、現在も「南部抗戦の精神は不滅」という言葉がスローガンとして掲げられています。

(C) NgBK,「1945年9月23日南部抗戦の日の精神は不滅」と書かれた看板

10月になると、戦火はメコンデルタ地方や中部のほうへと拡大していきます。しかし、軍事訓練もまともに受けていないベトミンが、これまでの戦争でジャングルにおける実戦経験を積んできたフランス軍や日本軍相手に戦うのは困難を極めました。そのため、ベトミンは次第に大規模な攻撃を控え、ゲリラ戦術を展開していくようになりました。

Wikipedia 南部の人民軍(1945年)

独立交渉の決裂、そして第一次インドシナ戦争へ

一方、北ではベトナム国の基盤を固め独立国家として世界に認めさせるため、翌年1946年1月の国会選挙に向けて準備を進めます。そして、初の国会選挙が行われ、同時に行われた国民投票で共和国憲法が承認されます。これで名実共に独立国家の形態が整い、フランスもベトナム国の存在を認めなければならない状況になりました。

こうして、フランスとベトナム民主共和国の間で独立交渉を進めることになり、1946年2月28日と3月6日、ベトミンとフランスは予備協定(ハノイ暫定協定)を締結します。これにより、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立が認められたのですが、フランスはプランテーションなど権益の多い南部を手放そうとせず、 南部にフランス傀儡政権コーチシナ共和国を成立 させてしまいます。

ホー・チ・ミン主席はフランスに渡り、ベトナムの完全独立に向けて交渉を重ねていましたが、交渉は決裂。このあと、ベトナムとフランスは第一次インドシナ戦争(1946年12月~1954年8月)へと突入していきます。

日本兵の立場

第二次世界大戦終結時、残留していた日本軍は、イギリス軍がベトナムに進駐した9月13日に降伏。イギリス軍側につくことに。そして、南部抗戦が一段落すると、日本へ復員していきました。正確な統計はありませんが、南部抗戦中のベトミン側の戦死者は2700人程度と見られており、そのうち少なくとも225人は日本軍により殺害されたと見られています。

一方、 元日本兵の中には、日本の敗戦とともにベトミン側に入り、武器を提供したり、軍事訓練を行った人が多数いました。 理由は、ベトミンに誘われ共鳴した、米国に占領された日本に帰りたくない、現地妻や恋人がいる、など様々でした。ベトミンは元日本軍将兵を教官とした陸軍学校も設立しています。ベトミンへの日本人志願兵は600人に上るとも言われています。彼らはベトナム名を与えられ、「người Việt mới(新ベトナム人)」と呼ばれ、ベトナム社会に溶け込んでいたようです。

つまり、日本人にとってこの南部抗戦は、日本人同士が両側に分かれて戦った戦争でもあったわけです。そして続く第一次インドシナ戦争では、数多くの元日本兵が新ベトナム人として戦死しています。

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