主に北部の習慣
この寒食節、実はベトナム全土にあるわけではなく、ハノイを中心とした 北部の習慣 です。北部ではこの日になると、通りのあちこちににわか餅菓子売りがたくさん出没しますし、餅菓子を手作りする家庭も多いですが、中部や南部では特に目につきません。南部では「3月3日は何の日?」と聞いてもピンとこない人が多く、知っていても、殆どの人はただ「餅菓子を食べる日」ということしか知らないようです。
寒食節の由来
「寒食」とは「冷たい食べ物」という意味。この日は、火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるということからこの名がついています。本場の中国では事前に用意した餅菓子やお粥を食べるようですが、現在のベトナムでは餅菓子を食べるという形だけが残っています。
この寒食節の起源は、こんな中国の伝説にあると言われています。
Wikipedia 、晋文公復国図
今から2000年ほど前、中国は春秋戦国時代。晋の国の君主である献公には重耳という息子がいたのですが、お家騒動に巻き込まれ、国を負われて19年間も中国北部を国から国へと放浪します。重耳に付き従ってきた者たちは、苦しさに耐えかねて次々と離れて行き、残ったのは介子推とそのほか5人だけでしたが、いずれも忠誠心の厚い者ばかりでした。食べるものに事欠くようになり、重耳がとうとう倒れると、介子推はひそかに自分の腕の肉を切り取って調理し、重耳に食べさせるほどの忠義を尽くしました。
のちに重耳が晋国の君主の座に就いて文公となると、苦難を共にした6人にそれぞれ高い地位を与えましたが、忠臣であった者たちが次第に権力争いを始めるようになると、介子推はこれを疎んじ、「焚死(ふんし)しても公候にならず」と言って、年老いた母を連れて山の中で隠遁生活をするようになりました。
文公は、戻ってきて側に仕えるよう介子推に使いを出しましたが、なしのつぶて。自ら探しに行ったものの、介子推母子は見つかりません。そこで、もし山火事になれば母を連れて山から下りてくると考えた文公は、山に火を放ちました。山は三日三晩燃え続け、山全体を焼き尽くしましたが、母子は姿を現しません。文公が家来に様子を見に行かせたところ、介子推母子は1本の焼け焦げた木に抱きついたまま、焼死していました。文公は母子の死を心から悼み、山に廟を建立して、その山の名前を「介山」と名づけました。そして、介子推母子の命日には家で火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国にお触れを出しました。長い間にこれが風習となり、現在まで「寒食節」として引き継がれています。
本場の中国では、寒食節に先祖の墓に詣でて故人をしのび、亡き御霊を祭るということですが、ベトナムでは餅菓子を祖先を祭る棚に供える程度で、特に祖先を祭る日というわけでもないようです。
どんな餅菓子を食べるの?
「bánh trôi(バインチョイ)」「bánh chay(バインチャイ)」 という餅菓子を食べます。
Wikipedia 、bánh trôi(バインチョイ)
bánh trôiは黒砂糖を米粉で作った生地で包んだお団子です。上に白ごまをトッピングします。
Wikipedia 、bánh chay(バインチャイ)
bánh chayは緑豆の餡が入っている団子をシロップに入れて食べるもの。上に、ゴマやココナツの果肉を細く切ったものなどをトッピングします。団子はbánh trôiよりも大きめに作ります。
この時期の北部ならではのお菓子、機会があればぜひ味わってみてくださいね。